2009年11月11日水曜日

8. 子供を産むということ。

私は1993年にアメリカに来る前に2人の重要な人間を失っている。
一人は私の父。
父は4年という長い癌との闘病の後、64歳の若さで他界した。私はアメリカで生活出来るチャンスを捨てて、父の看病を母とし、父の墓を建てるまで日本に滞在した。
この時のことを、第一回めのブラックホールと呼んでいる。
全てが反対方向に向いていたと言っていいような気がする。私は日々に痩せて動けなる父の"死”を恐がり、そして自分も失っていた。
私は父の亡くなる前の40日間、父の病室で寝た。病院から、父は私のことしか聞かないので泊まり込んでもらわなくてはならないといわれたのである。
私は父と同じ天井を毎日見ていた。
腎臓がんの父と同じように血尿が出た。
その検査のときも父と同じ天井を見た。
私はこの天井を見て死ねないと思った。
父の最後の言葉の1つに、
”孫を見れなかったことが後悔だ。今からでも間に合う、作ってこい。”
などと言ってくれたのである。
生きていれば冗談だが、他界されると34歳になっていた私にはこの言葉は重くのしかかった。それは私自身の年齢にもあって、余り考えている時間もなさそうに思えた。

私は父が亡くなった時、神に祈ったのである。

どうか、偶然に子供を授けてください。出来れば、その子供の父親はヨーロッパ人で、私は自分の子供を一人っ子にしたくないのと、おそらく私は一人しか産めないので、既に子供のある人にしてください。

もう一人は私をデザインの世界に入る影響を与えた人。
父が死にかけている頃、彼女が病気で入院中と聞いて、彼女に似合いそうなパジャマを買って見舞いに行った。
彼女は私の8歳年上で、彼女のしていることは全てがカッコ良く見えたものだ。彼女みたいにかっこいいデザイナーになろうなどと高校生の私は憧れた。
けれど、彼女はいつも私を特別な友達として扱ってくれた。
でも、8歳上だから、彼女の人生は私より1,2歩先だった。私が彼女と知り合ったときは彼女は既に結婚していたし、私が働きだしたときには、母になっていた。
私が見舞いに行くと凄く嬉しそうで、ガウンを羽織って、

”下に行って、話しよう。”

と言った。
私は父の闘病で長いこと患者を診ているし、多くの人を見送ったりしていたので、彼女の病状を聞く気になれなかったので、どこが何れだけ悪かったのか、今も知らない。
尿の袋をぶら下げていたことは覚えている。それを悲しく思ったことを覚えている。

”フリ,幾つになった?”

私が17のときから知っている彼女はこんな風に話し始めた。

”34歳。

”わぁ、そんなになるの?37歳で子供産みなさい。厄払いになるわ。
私は退院したら、今度こそ、人生やり直すの。離婚するわ。父のところに帰る。”

彼女の顔は輝いていて,決して悲惨そうでなかった。

私がアメリカに発つ頃、私達の共通の友達と道で出会った。
彼が、彼女の死を教えてくれた。
彼女のご主人はほとんど誰にも彼女の死を連絡しなかったのことだった。
当然、私にも連絡がなかった。

父を亡くしてから、私は毎日のように生きている父の夢を見た。父は一言も喋らないのだが,仕事に行っては帰って来るのである。
私は子供を授かったことをその瞬間に知った。
そして、その日からぴたっと父は夢に出てこなくなったのである。
ケントは神の子だった。

そして,私は37歳だった。

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