2009年11月11日水曜日

6. 12年前のその前。

グラムからの”電話”で始まるこの話は,丁度12年を一回りしたところから始まっている。12年前にメアリと出会い、メアリに捨てられた。しかも、同じ季節である。

だから12年前のフラッシュバックの話を書く前に、その前のことに触れておかなければならない。

グラムと知り合った時に、彼のアル中を発見出来なかった私は馬鹿であるが、言い訳がある。

私はグラムと旅先で知り合った。五日間だけの出会いでその後、彼はシカゴ、私はニュージャージ、電話や手紙でつきあった。彼はイギリスに帰るような話をしていたし、私達の今後の進展は全ては彼の決断にあるように思えた。イギリスに一緒に来ないかとは誘われたが、私はイギリスにもシカゴにも行く気はなかった。それからほぼ2ヶ月後、グラムはNYに来て私の面倒を見るのだと言い出し、そして、突然、飛んで来たのである。

その時の話はいまだに私のお気に入りである。

私は空港に迎え行ったが、たった五日間の恋で2ヶ月も経つので顔を覚えているかどうか不安だった。けれど、グラムは出会ったときと同じ印象の紳士だった。

グラムはとても嬉しそうに,

”君に見せたい物があるんだ。”

と言った。

アパートに着くとその紳士はいきなりズボンを少しずらして、彼の後ろ側の腰の辺りを見せた。
スコットランドの母方の家紋,ボブキャットの入れ墨、そのとなりになんとハンコの入れ墨が、、、!

彼は私の送った手紙にあったハンコを入れ墨して,ニュージャージにやって来たのである。そのハンコには,アートスタジオフーディと書かれていた。日本語が読めない彼は,このハンコに私の本名が書かれていると信じ込んでいたらしい。
申し訳ないが、私は呆れて笑ってしまった。

”歩く広告?”

グラムは苦笑いだった。

”どうしてラブレターに会社のハンコを押したんだい?”

と聞いた。

”私の描いた絵にあのハンコは効果的に見えたし。デザイン上の理由で。”

彼の入れ墨は私への愛であったのか? 彼が人生を変えようと言う強い意志だったのか? ただ私を利用しようとしたのか? 何だったのだろう。

ニューヨークには友達が居て,そこに連絡すればすぐに仕事が取れる。と,彼は言っていた。私はアメリカに来てまだ一年も経たず、私のアメリカでの生活は山のものやら海のものやら分からない状態で,学校に通っていたが,お金も学費で使い果たしたので、フリーランスでテキスタイルの仕事を始めていた。しかも、ラッキーにも人並みに稼いでいた。

グラムが来たので,ルームメートも彼氏と住むと決めて引っ越すことになった。グラムはシカゴの倉庫に預けている彼の家具を取りに帰った。お金がもったいないから、引っ越しトラックの中ソファで一晩寝たといって二日で戻って来た。

その後,グラムはこう言った。

”もうお金がない。”

”誰かが私の面倒を見る”という私の夢は一瞬にして消え去るのだ。

グラムとの生活が始まると、ベットとタンスとソファと鍋以外のもの、家賃,光熱費,2人分の食費、彼の酒代、ルームメイトと共有していた車は彼女が持っていってしまったので、車の購入。突然3倍以上の支払いが私に背負い込んだ。

それもグラムの仕事が見つかるまでのはずだった。
NYの友達に会いにいったが、彼が私に話したような間柄でなかったのか? とにかく仕事にはありつけなかった。それから,履歴書を書いて仕事探しに入ったが、思い通りに行かず、仕事はそう簡単に見つからなかった。

グラムは酒を飲み始めた。

問題はこの状態で私が妊娠したことである。父が糖尿病だったので、やや早い時期に検査をするとやはり妊娠性糖尿病にかかっており、毎週病院で食事制限のチェックを受け、インスリンの量を調節しなければならなかった。いくら食事制限をしても、数値は大幅に上がったり、下がったりした。全てはストレスがなす数字で、グラムのお陰で私は問題だらけの妊婦だった。

生活のために朝から晩まで仕事をした。絵を描いた。仕事は次から次へとあったので、私は時間があるだけ、仕事をした。納品はグラムの運転でNYまで、私達は知り合いのいつ潰れてもおかしくない車に安い中古車が見つかるまで乗っていた。そして何度も潰れて動かなかった。私達は朝から晩まで一緒にいた。グラムはお金もないし,友達もいないので出かけたくても,出かけられない。私の収入はグラムに隠していた。私は貧乏を装い、彼にお金を渡さなかった。私は出産後の3ヶ月分まで貯めなくてはならなかったし、私の稼ぎで赤ん坊のために買わなくてはならないものは沢山あったし、彼の酒代に化けていくわけにはいかなかった。金持ちとの暮らしをして来た彼にとって、貧乏なアジア人との暮らしはより一層彼の人生を悲惨に思わせた。

毎日のようにへレンとの優雅な暮らしの話をして聞かせた。

グラムは19歳でシモンと結婚した。彼女はシンガーでグラムはピアノマンだった。グラムはアコーディオン弾きでもあった。彼らはブラックプールなどでショービジネスで食べていた。ラッキーにもクィーンエリザベス2でバンドとして雇われることになった。へレンとはこのクィーンエリザベス2で出会っている。へレンがいかに金持ちのお嬢さんであるかはクィーンエリザベス2でイギリスに行ったというだけで充分なインフォネーションである。彼らの始まりは不倫だったのか?と思うことはあるが、グラムがシモンからへレンへ移って行く話は聞いていない。

グラムのピアノは確かに凄くうまい。けれど、悲しいことに酒や鬱病の薬の投与で今は手が震えてもう弾けないのである。

*なぜ、タイトルのデザインがピアノであるのか?その答えはここにある!

へレンとグラムは結婚してへレンの叔父のいるロスに住んだ。ロスでの優雅な話しをしてくれる。そこで長男のクレークは産まれる。プライベートドクターの話。旅行の話。へレンの話。それを聞きながら,プライベートドクターを持たない妊婦の私は生活のために仕事をし、インスリンを打った。

ルームメイトの部屋は私達の寝室になり、私の部屋は彼の仕事部屋となり、そこにへレンと行った旅行の写真、スキューバーダイビングの写真やブラックプールでのショービジネスの写真を貼った。余程、その時のことが恋しいのだろう。彼らがロスに居た年。クレークが産まれた年。私もロスに居たのである。私は彼らの住んでいる20分先のところに住んでいた。勿論、私は彼らのように優雅な暮らしはしていなかった。

ある日、私が納品から戻ると、裁判所から脅しの連絡があったと酒を飲んで鬱になり、恐ろしく機嫌が悪かった。へレンとの離婚後、牢屋に放り込まれていたということである。理由や期間をその時、グラムは私に話したのかもしれないが、私は覚えていない。その裁判はまだ解決してもいないのにニュージャージに来たようなのである。要はグラムは逃亡者である。

言いたくはないが、私は彼の隠れ家になったのだ。愛でも恋でもなんでもない。それが今、分かっても、既に手遅れである。

この事件の裁判のためにシカゴに帰らせたことがある。ついでに彼の2人の子供に会いたいというので、ホテル代と飛行機代と必要な小遣いを渡した。彼は丁度、クリスマスイブに戻ってくるので,晩ご飯を食べに行こうということになっていたが,グラムは空港で酒を飲んで夜中まで帰ってこなかった。酒を飲んだ理由は,子供たちに会うと、昔の金持ちだった生活を思い出して,惨めになるらしい。私の800ドルを使い果たして、今の貧乏な生活に怒っているのだ。そして、私を”馬鹿なアジア人”と侮辱するのだ。

最も私の人生で問題だったのはこの不安定な健康状態での妊娠で安定した仕事先があるにもかかわらず、その会社に努めて仕事用のビザを取るということができなかったことにある。

ケントが産まれる前に私達は結婚して彼をスポンサーにして私のグリーンカードを申請する方法しかなかったことである。グラムのアル中が分かっていたので、出来れば結婚はしたくなかった。しかし、アメリカに残って、この子を育てるには結婚しかなかった。私達は出産の2ヶ月前に籍を入れ、グリーンカードの申請をした。

彼の裁判沙汰は、クリスマスの時で終わっていなかった。罰金を払わなくてはいけないのを滞納していたようだった。それの支払いの期限が、私の出産、帝王切開の10日後だった。

そのことで怯えて酒を飲む夫に何が言えただろう?

産まれた赤ん坊は肺炎でしばらく入院していて、赤ん坊の退院の日が,罰金を納める最終日で、赤ん坊は病院を出るとすぐに父親の罰金を母が支払うためにマンハッタンに連れて行かれたのた。(その頃、私の銀行はNY市内にしかなかった。)

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