2009年11月30日月曜日

16. 服がない。

3日後の夜にグラムから電話。

明日、病院から出されるんだ。
だが、服がないので看護婦さんが探してくれている。

どうして服がないの?


”よく覚えていないんだが、どうやらパジャマでここに来たらしい。”

どうしても明日、出て行かないといけないの? 居候しているところの友達は服を届けてくれないの?

”彼は今、カリフォルニアにいる。”

それで、私が服を持っていかなければならないのね? でも、持っていけるのは夕方になるわ。ケントをキャンプに連れて行って、迎えにいかないと行けないから。 Detoxに移るんじゃなかったの?

”明日、出て行けと言われてるんだ。
病院はそういつまでも置いてくれないんだ。
君のところにPが帰って来るまで、泊めてくれないか?”

それはできないわよ。しばらく日本にいたから、仕事が山ほどたまっているもの。

”そうか、俺はホームレスか。

といって、電話を切ってしまった。
グラムは何度もうちに泊めてくれと頼んで、ノーと云われて、怒って電話を切っている。

どうしてDetox unitに移らないで病院をだされるのだろう?うちに置いてくれと言っている。どうしたらいいんだろう?
と書いて、ヘレンにメールした。

うちには医学生がいるから、的確に答えられるわ。グラムがDetox unitに行くのを拒否したのよ。それから、クレーグが言うんだけれど。あなたがグラントを引き取らないからといっても、決してあなたの責任ではないわ。当然の拒否だと言っているわ。グラムに何があってもそれは彼の自業自得なのだから。
癌で死にかけているからなのか、アル中が完全に精神病化してしまっているのか、グラムの精神状態はおかしいわ。とても危険だわ。ましてや、そんな状態の人間を家に入れるなんて考えられないわ。
全く、あなたの立場に本当に同情するわ。
私達はあなたとケントが危険な目に遭わないようにと祈るしかないわね。

と返事が来た。

彼らが心配してくれるように、うちに入れるなどもってのほかの状態なのだ。
けれど、彼はこの後どこへ行くのだろうか?

翌朝、タイミングよくキャロルからのメール。

メアリと話したわ。彼女の電話番号をあなたに渡してもいいって言ってくれたわ。
xxx-xxx-xxxxx、これがメアリの番号。彼女がグラムの健康保険は今月末で切れるらしいわ。 早速でも、電話して詳しいこと聞いた方がいいわ。 がんばってね。

私はケントをサッカーの早朝練習に落とした後、メアリにダイアルしたが、留守番電話に通じた。”電話と下さい”と私の携帯の番号を残した。
彼女から電話がかかって来たのは、私がゼントをサッカーの練習から迎えに行く運転中だった。30分後にかけ直していいだろうかと聞いたら,1時間後にしてくれというので、時間通りに電話した。
また彼女は電話に出ず、留守番電話に繋がった。
それから、15分、30分おきに電話したが、出なかった。
うちにおいてくれと頼んでいるグラムの話しをメアリとどうしてもしなくてはいけなかった。運転中だったために話しが出来なくて、そのチャンスを逃したら、もうチャンスはないのか?全ては彼女中心でなくてはいけないのか?彼女のクィーンのような態度が許せなかった。
昼に今度はアイスホッケーのキャンプにケントを連れて行かなくてはならなかった。
その足でターゲット(大手スーパーマーケット)にグラントの服を買いに行った。
もう3時間もメアリから電話がない。
ターゲットの駐車場で私は怒りを抑えきれない口調でへレンに電話した。

”オーマイゴット。かわいそうに。電話番号を言って。私がかけてやるわ。”

私は悶々としながら、グラムの服を選んでいた。
ホームレスなのだから、アイロンをかけたりしなくてはならないものはいらない。
サイズは?ミディアムでいいわよね。
スエットシャツ,スエットパンツ、これがいい。
カラーT−シャツ、2枚。肌着用のT−シャツ、Hanesのセットのでいいか。
アンダーパンツ。こんなタイプのを昔ははいていたから、こんなんでいいか。5枚セット。
靴下もいるわね。
これから寒くなるから、ちょっと暖かそうなジャージもいるわね。
ぶつぶつ言いながら、次々とカートに放り込んだ。
電話が鳴った。
メアリだった。へレンが電話で捕まえたんだと思った。

”ごめんなさいね。すぐに電話を返せなくて。明日からスコットランドに帰るのですることがいろいろあって忙しいの。”

仕事で?

”母の具合がよくないのよ。”

それは大変だわね。だいぶ悪いの?

”ええ、まぁ。今回は一週間ほどいて、状態によっては長く帰るようにしなければならないと思っているの。”

私も母を亡くしたところだから、よく気持ちはわかるわ。 ところで、グラムのことなんだけれど。あなたがグラムを追い出してから、うちにひっきりなしにグラムから電話がかかるのよ。今、彼は入院しているんだけど、彼と話した?

”アメリカに戻ったとは聞いたけれど話してないわ。”

じゃ、Pと言う人,知っている?

”ええ、グラントのクライアントだから知っているわ。”

そこに居候しているのよ。でも彼が今カリフォルニアにいるから、アパートには入れないらしいわ。その上、そこにある服や彼の持ち物も出せないらしいわ。 今日、病院から出されるらしいのだけれど、服がないから持って来てくれと云われて、買い物しているところなのよ。

”服なんて買わなくてもいいわよ。うちに一杯あるわ。”

うちにあっても、病院にはないでしょ。私はとにかく買って今日届けなくてはならないの。 私はあの人の子供を育てているだけで、あの人の面倒を見る必要はないのよ。 12年前にあなたに手渡してから、私には関係のない人なのよ。あなたが面倒を見れなくなったからイギリスに帰したでは、犬の子ではあるまいし、そう話しは簡単に終わらないのよ。 グラムはへレンに電話して、膵臓癌だって言ったのよ。2人の子供は父親が死ぬ前に会っておきたいから出てくると言う。私は日本から戻って来た日に、うちに置いてくれとメールがあって、ノーと言うと、その次に日に膵臓癌だという電話をしてきたの。その二日後からこの入院騒動。
退院しても行くところがないから、また私のとこに置いてくれと言うんだけれど、アル中を14歳の子供のいるうちにはいれられないわ。私は10月と11月にショーがあって作品を創らなくてはいけないっていうのに、この騒動でちっとも仕事に集中出来ないでいるし、その上、彼を抱え込むなんてできないわよ。グラムにケザウィックに行くように勧めているけれど、本人がその気にならないと駄目だし、順番待ちで、4−6週間かかると言っていたから、申請してなければ入れないわ。ケザウィックって12年前に私が入れようとしたリハブの施設。宗教的に厳しいしから、嫌がっているのだけれど。

”癌なわけはないわ。
わかったわ。どこの病院にいるの?”

セント,ルークス。xxx-xxx-xxxx。

”電話して退院のことなど、詳しいこと聞いてみるわ。それから、友達のダンカンにも聞いてみる。彼の息子がドラックの中毒者のリハブの施設をしているの。何度かグラムをそこにいれようとしたけれど、本人が行きたがらないので無理だったの。”

そうしてくれると助かるわ。

”じゃ、後で。”

へレンの名前は出てこなかった。へレンからの電話で、私にかけて来たのではなかった。
スパーマーケットで私が言いたいことのすべてを話すことなんてできなかった。
12年間,溜まっているものを男ものの服の狭間で聞き取りにくい携帯電話で話すほど簡単な内容ではなかった。聞きにくいと私の声も大きくなる。他の人にも聞こえていたんだろうな。
けれど、また機会を逃すと、この人といつ話せるのがわからないと思って、必死に喋った。

服を買って家に戻り、すでに買ってあった頼まれたものーヘアスプレーとひげ剃り、頼まれてはいないが、最低,生活に必要そうな洗面用具などを私の旅行用の入れ物にセットした。
その後、全てが入りそうなカバンを探した。私が余り使わない革のボストンバック、これをグラムにあげることにした。ちょうどいいサイズだった。
そんなこんなをしている間にケントを迎えにいく時間となった。

メアリが病院側がメアリと話しをさせてくれないと電話して来た。
彼女に病棟と部屋番号を教えた。
そこまですでに知っていれば、身内の者と証明出来て、話しを聞ける可能性があるかもしれないと思った。
メアリがもう一度調べて電話するからというので、家で待機することにしたが、2度目の電話もはっきりしたことがまだ分からないということだった。

メアリ,じゃぁ、私はとにかく病院に向かうわ。看護婦か、もしくは誰か状況の分かる人を私が見つけて、あなたが喋れるようにするわ。私達は今から出るから、私の携帯に電話をちょうだい。

たった5日間の入院中に私達は3回も病院に通うことになってしまった。
運転中にまたメアリから電話がかかった。

”事務局の人と話しが出来たわ。
彼が退院して行くところはラファイエットにあるクライシスセンターでベットが空いているかどうかまだ分からないらしい。その後、ラッセル・E・バレイズデールに行くことになっている.その後は、あなたが言っているケザウィックに行くらしいわ。”

ちょっと待って、運転中にそんなことを言われても、私は覚えられないわ。ケント,覚えれる? そうだわ。今言ったことメールしてくれる? 私、運転中だからケントと話して.この子は何度かそっちに泊まりにいっているし、知っているでしょ。

”ええ、ケント、そこにいるの?じゃ、メールアドレスを言って。”

病院で何かわかったら、連絡するわ。スタンバイしておいてちょうだい。じゃ。

連絡が繋がると、メアリという人は悪い人間ではなさそうだった。電話で事情を聞き出したのだから、たいしたもんだと思った。

フラッシュバック
私は母と話しを電話でした後,大丈夫だと母は言ったが、身体に酸素が入っていない気がして、福祉の人に母を訪ねてほしいと連絡した。その彼女が倒れている母を見つけて救急で母の病院に運んでくれた。その連絡を彼女から貰って、すぐに病院に電話をした。すると、緊急病棟の医者は、アメリカからかけているというのに、個人情報保護法により、病院まで来ていただいて身元を確認しないとお話し出来ませんと言ったのだ。今にでも死ぬかもしれない母のことをアメリカにいる娘に話しができないと整然と言い切ったのだ。日本は馬鹿である。だが、私はアメリカでも諦めないように、日本でも諦めなかった。その後は、私が日本に帰るまで、毎朝、9時に電話を入れると看護婦さんたちが母の病状を教えてくれるということになったのだった。

3度目の来院は簡単だった。駐車するところも、病室も知っている。
7時をまわっていたので、また部屋は暗かった。
隣りのベットには違う人が寝ていた。咳き込んでいた。
アメリカで5日間入院するというのは非常に長い。手術でも当日や次の日に出されるのが普通である。

服を持って来たわよ。サイズが合えばいいけれど。好き嫌いはこの際諦めてもらうわ。
どこに行くか知らないけれど、アイロンがいる服はいらないでしょ。

と言って、ひとつずつ広げてみせた。
結婚している時,彼は何一つ私が買って来たものを着なかった。だから、私は今回も彼のものを買うのは嫌だった。感謝されるはずもないと思っているからである。
自分で言うのもなんだが、私は趣味がいいと思っている.それなのに、感謝されなかったのは、彼が私をひどく見下していたからだと思う。

ひげ剃りはこれでよかったのかなぁ。

”うーん、頼んだものとは違うが、それでいいよ。気にしなくていい。
悪いなぁ、助かるよ。パーフェクトだ。ありがとう。”

と意外とまともに感謝してくれているような答えが返って来た。

”これが僕が行くところだ。看護婦がコピーしてくれた。”

メアリが言った通りで、クライシスセンター、ラッセル・E・バレイズデール、そしてケザウィックもプリントアウトされていた。

”ここはひどいところだと聞いた。ホームレスの集まりだそうだ。”

それはラッセル・E・バレイズデールだった。

ケザウィックに電話したの?

”した。申し込んでから4−6週間くらいかかると言っていた。”

私のところに来れないと昨日確認した後,どうやら、病院側がホームレス用に情報を与えたようだ。

もう遅いから、今日は退院させないでしょ。

”そうだといいがなぁ。”

大丈夫よ。今日はゆっくり寝た方がいいわ。明日は大変でしょうから。

”お願いがあるんだ。Pに連絡してくれないか?彼のところ置いているものを引き取りたい。明後日くらいにはカリフォルニアから戻って来るはずなんだ。けれど、僕はどこに行くことになるか分からないから、君にが引き取って来てくれると助かるんだが。コンピューターなど需要なものが預けたままだし、こうなると、彼を信用出来ない。彼の連絡先はメールで送っておく。今,全く現金がないので40ドルほど貸して欲しい。スーツケースの中に300ドルほど現金が入っているはずなのだが、そのお金は君に貰って欲しい。”

やりたくない仕事だと思った。この友達も想像外のとばっちりで、きっと怒っているに違いない。できることならば関わり合いたくなかった。

Pを信用出来ないなんて言ったら罰が当たるわよ。あなたの面倒なんて見る必要もないのにイギリスから戻ってから面倒を見てくれた人でしょ。感謝すべきだわ。
できることなら、自分でやってくれるといいんだけれど。自分で自分のものは確認した方がいいでしょ。

”できればそうしたいが、できないと思う。”

私が持っていた現金全部,60ドルを渡した。そして、グッドラックを言い渡して、退散した。
私達は晩ご飯も食べていなかったので、かなりお腹がすいていた。病院の前にデリとクレープ屋があった。そのクレープ屋は甘くておいしそうな匂いがしたし、人の入りもよかった。けれど、晩ご飯に甘いものという気分にはなれなかったので、隣りのデリでスープを頼んだ。なかなかおいしかった。

ここに来るもの最後よね。これも思い出になるわね、そう思わない?

”凄い思い出だね、マム。”

はははと私達は笑った。

食べ終わって車まで行くまでに、ケントはこういった。

”40ドルって言っているのに、60ドル渡すことなかったんやないかなぁ”

鋭い指摘だった。

できるだけ必要な物を詰めたつもりだけど、まだ必要な物があるかもしれないじゃないの。買い物をしたら、すぐなくなる金額だもの。

自分が一番、お金に困っているのに。

それはそうだ。

はははと私は笑った。

2009年11月27日金曜日

15. 癌なの?

グラムはジョージとパムと喧嘩してアメリカに帰って来たのだから、もうジョージには電話が出来ない。これはグラムにとって片腕をもぎ取られたのと同じくらい、大変なことだった。
精神的に頼れる人を失したわけだ。
そのせいか、それからは一番上の兄、ビルの名前を出すようになった。しかし、ビルとは精神的に距離があり、余程のことがない限り頼るとは思えないのだ。それでもビルに連絡してくれというのだから、余程の事態なのかもしれなかった。
へレンに癌だという電話をした時もスコットランドに帰るようなことを言ったみたいだし、最悪はスコットランドに帰るつもりなのだろうか。
彼は父方のイギリスの血より母方のスコットランドの血を誇りに思っている。だから家紋を入れ墨している。生まれもスコットランドである。そして、メアリもスコットランド人である。
私が大阪で育ったのに、両親の里で、私が三歳まで住んだところ(信州)を自分の里と思っているのと近い感情なのだろうか?私は大阪人ではなく信州人なのである。彼がイギリス人といわれるより、スコットランド人といわれたがるのと同じだ。
私もスコットランドのキャロルに連絡を取りたかった。彼女なら、メアリの電話番号を教えてくれるかもしれないと思ったからだ。しかし、キャロルのメールアドレスはあるが、電話番号がない。
そうだ、へレンだ。へレンに聞いてみよう。

ー 今日、病院に行って来たけれど、グラムはしばらく死にそうにないわ。書くことが多すぎてメールでは無理。電話にして。 ジムに連絡しろといわれたんだけれど、メールのアドレスはあるけれど電話番号がないのよ。 教えてくれる? じゃ。
とメールした。

ー 一体、どうだったの?何があったの?
今晩電話するわ。xxxxxxxxxxxxx これがビルの電話番号,変わってなければいいわね。
じゃ、後で。
とメールが返って来た。

キャロルに電話した。

”メールでは言いきれないから電話にしたのだけれど、元気?

"私達は大丈夫だけれど。
ごめんなさいね。私達がイギリスに行かれない間にグラムはアメリカに帰ってしまって、私達は何も出来なかったわ。ジョージもパムも何も話してくれないのよ。話したくないみたいね。本当に簡潔なことしか言ってくれないの。酒を一杯飲んであばれたらしいわ。ひどい人間だと言っているのよ。"

”私にもイギリスでのことはよくわからないけれど。私が日本に行く3日まえにグラムがアメリカに戻って来たという電話をしてきたの。
それから、私達は3週間日本にいたの。そして、アメリカに戻ったら、3日前なんだけど、グラムからの電話で膵臓癌だというし、一体、何がなんだか分からないのよ。
グラムは私が日本に居る間にへレンにも電話して、膵臓癌だって言ったのよ。クレーグやジュリアもそう思っているらしい。グラムはまた入院しているのよ。グラムが病院から電話して来たときは、癌で死ぬと思って驚いて飛んで行ったのよ。
私はどうしてもメアリに連絡を取りたいの。メアリの都合でグラムにしていることが、こうして私のところにとばっちりが来るのよ。それなのに私は12年も彼女の連絡先を知らない。ジョージはこの12年間,決して教えてくれないし、ましてやグラムが教える訳がない。これではらちが明かないのよ。頼むわ、キャロル、私を助けて。

”分かったわ。あなたのために何でもしてあげる。今ここに電話番号を持っていないけれど、調べてメールするわ。
かわいそうに、ろくでもないグラムのお陰であなたはいつも迷惑を被って。かわいそうだわ。何とかしてあげる。”

”ありがとう。助かるわ。


”それで、グラムは癌なの?”

”私は癌ではないと思うわ。


”そうよね。そんなはずはないわ。ジョージもでまかせだと言ってたし。
とにかく、私に任せて。”

とキャロルは優しかった。

その夜、へレンから電話。

”どうなっているの?グラムは?”

”グラムは大丈夫よ。酒の飲み過ぎで救急車で運ばれた時に打った膝の痛みで苦しんでいるだけ。

"それで彼は癌なの?"

”あくまでも私の意見だけれど、癌ではないのと思うのよ。頑強な内蔵だわ。あれだけ飲めば、癌で死んでいてもおかしくないわよ。今度来る時はひげ剃りとヘアスプレーを持って来て欲しいというのよ。

へレンは声を高くして笑った。

“私でもヘアスプレーなんて使わないわ”

グラムとはそういう人なのある。身だしなみに気を使う人で紳士でなくてはならない人なのである。

”でも冗談でも言うことではないわ。癌だなんて。クレーグやジュリアまでに心配させるなんて”

と、今度こそ真剣に怒っているようである。

私はこの二日間の話しを極力簡潔に話した。

”私はもうグラムにはお手上げだわ。関わったところで何もできないし、頭に来るだけだわ。
彼がまともな人間で、養育費を送ったり、子供たちに会いに来たりしてくれたら、私もこんなに働らかなくてもよかったって思うし、楽に暮らせたかもしれないのに。あの人のアル中で、私は本当に苦労したのよ。これ以上は、もう、願い下げ。あなたもそう思ってもう関わらない方がいいわよ。ケントの人生が一番大事。”

私も関わらなくて済むのなら、関わりたくなかった。
けれど、電話がかかって来るのはうちなのである。
そして、グラムが皆に言った膵臓癌は真っ赤な嘘と私は報告する必要があった。

2009年11月26日木曜日

14. 病室。

グラムは2人部屋の入り口側のベットだったので、ドアも開いていたのですぐに分かった。
私達は夕方5時頃でかけ、すったもんだで長い間,緊急病棟にいたので、グラムの部屋に入る頃には日が沈みかけている時間になってしまった。部屋全体の電気がついてないせいか、暗かった。個人用の間接ライトだけだからだろう。

私達が見えると、グラムはまた昨日のように、目を大きくして驚いた。
昨日のことも覚えていないのかもしれない。また、明日来るわねといった言葉など覚えていないのだろう。

”ハイ。

”ハイ、ダッド。”

今日のグラムはちゃんとした入院患者だった。布団だってかけてもらっているし、枕だってある。ベットの背をあげて座っていた。

同室の患者にハローと言うと、にこっとして、ハローと言った。同室の人はテレビを見ていた。テレビは天井から吊るされ、各自にあてがわれている。
グラムのテレビもついていた。
まず、私達は同室の患者に迷惑にならないようにカーテンを引っ張って仕切った。

”今日はどう?


”膝が曲がらなくて、動けない。”
と言って膝を指差す。

”少しは寝れた?

”いや、寝れないんだ。すぐに起きてしまう。膝は凄く痛むし。”
と言った後、何かを探し出した。看護婦さんを呼ぶベルを探しているという。
ベットの外側にぶら下がっているのを見つけて手渡した。

ー どうしましたか?

”すまんが、痛み止めの薬を持って来てくれないか、さっきから頼んでいるんだが。”

ー 持って行くから、もう少し待ってね。

”どうも、ありがとう。”

お酒はやや抜けているように思うが、彼の酒の量は私達の量ではないので、一日なんかで抜ける訳はない。
いろいろと聞かなくてはならないことがあるが、酒が抜けていないと話しにならない。
酒が入っていると、自分の都合の悪いことになると怒ってしまうからである。顔色を伺いながら、タイミングよく話しをもちださないといけない。
こういったところの彼の性格は私の父と似ているので、父と接するのと同じ要領でやらなくてはならない。

私は死ぬほどメアリの電話番号が知りたかった。ケントはそのことを知っているので、今日もグラムの携帯を手に入れることが自分の使命だと思っている。
そんなケントにグラムを任せて、私は詰め所に行ってみた。
そこで私は彼の前妻で彼の息子を連れて来ているのだが、彼の病状を知りたいのだが、誰かと話しはできないのかしら?と看護婦さんに聞いてみた。

カルテがあるから分かるけれど、彼の了解を得なくちゃね。

”彼女があなたの病状を知りたいって言っているけれど、話してもいいの?”
と看護婦さんがグラントに聞いた。

”勿論!そりゃ、いいとも。”
と言った。

看護婦さんと私は詰め所に戻り、看護婦さんはカルテを見ながらこういった。

”膝の打ち身がかなりひどくて歩行に無理があるので、本来はDetox病棟に入れられるのだけれど、歩けるようになるまで普通病棟のようね。”

”じゃあ、いずれは向こうに移るのかしら?


”そうね、多分。”

”本人は自分が癌だと言っているんですけれど、そういった検査はしないんでしょうか?

”うーん。分からないわね.そんなことは全く書かれていないし、ここには酒の飲み過ぎ,アルコール中毒のことと膝の打ち身のことしか書いてないわ。”

これは今から考えると、グラムのラッキーの1つである。
今まで、何度もグラムは病院にこうして入っている。5日ほど酒抜きをして出て来ては、また酒を飲むということを繰り返しているはずである。もし彼が膝を打っていなければ、面会謝絶の病棟に監禁されてしまっているので、私は病院に来たところで、何も分からなかったということになる。私はグラムの言うことを80%まであてにして聞いていないのある。彼の話しに裏付けが必要なのである。彼は大ほら吹きだが、100%嘘ではない。20%くらいまでは事実で、そこに80%の装飾品がつくのである。その80%の真実は彼の人生に関わっている人間から聞くしか方法がないのだが、この12年は全くメアリとの連絡はできなかったので、私はグラムの12年は何も知らないと言って過言ではない。唯一聞き出せるとしたら、ジョージだったが、彼は私に何も教えず、”メアリとグラムには関わるな”と言い続けたからである。
だから、こうして病院で第3者の話が聞けるのは大変有り難い。

12年前にタイムスリップ
私がグラムを追い出した後、彼の働いている会社の社長がグラムが入院と連絡して来た。もちろん、私のことだからすぐにでも飛んで行こうとしたが、ケントを預けなくては行けないので、預ける友達・シンディに相談した。私は拘束オーダーを取っていたのでグラムと直接会ってはいけない。そういうことも含めて、会いに行かない方がいいとシンディとその家族ははアドバイスした。そしてこの時の私は強く彼に会いにいかなへればとも思えなかった。何があっても彼の自業自得、私には関係ないと思った。
メアリが見舞いに行ったということは後々、グラムから聞いた。あの時の入院は何だったのだろう。
話しは戻る。

”ここにどのくらい居れるの?


歩けるようになったら、Detoxに移される。でも、ここには5日しかいれない。
メアリが健康保険をキャンセルしてしまうから、もうここにはいれないと思う。

昨日、話したドクターがリハブの30日のカリキュラムがあると言っていたわ。聞いてみたら? 保険やお金がないなら、Keswickに行って欲しいと私は思っている。 私はリハビリのことに詳しくないし、ここしか知らないからここを勧めているけれど、4ヶ月集中治療でしかも、更生率が高いし、試す価値があると思う。 連絡先とかプリントアウトして来た。その気になったら電話して。

*Keswickとはー宗教団体がボランティア(無料)主催するアルコール中毒者のためのリハビリ施設。男性のみ。120日のプログラムで家族とのオリエンテーションもある。
12年前にタイムスリップ
グラムの自殺騒動で呼び出された時
(”イギリス,そして入院”に記載)、彼はホームレスになるところだった。
私は彼のアルコール中毒から脱すれば、人生をまともに考えれるようになるのではないかという期待は捨てられなかった。彼の人生は酒を機転にして狂っているからだ。
私が故意にしているアメリカの家族がKeswickと云うリハビリの施設を教えてくれた。
私はグラムを連れて、そこを訪れた。
1時間ほど南にある施設で、大きな池があり自然に囲まれたいいところだった。池の周りを歩いて、ここに入るなら、私は協力したいと言った。
Keswickの人はこう私達に説明した。

本人がその気にならなければ、ここには来れないんです。非常に高い確立で更生するので、とても多くの人が入りたがっているので、順番待ちということになります。条件としては、ここに入りたいという意思表示が必要なので、毎日、電話をかけてきて頂きたいのです。
その強い意志が順番を早めることもありますが、2,3ヶ月かかるかもしれません。

ホームレスとなったグラムがそこに入るにしても2,3ヶ月、彼が滞在する場所が必要だった。
私達が懇意にしているアメリカ人の家族はバブテストの信者で、非常に信仰心が強い。彼らが教えてくれたKeswickも非常に信仰心が強いところである。グラムはそれがどうやら嫌なようではあったが、信仰心なしに更生はできない。
その家族は彼をKeswickが受け入れるまで、彼らの地下に住んでくれても構わないと言ってくれた。そして、グラムはそのリハビリに行くと言ったので、彼らのところに居候することになった。彼が居候をしている頃、その家族はバケーションで6日間留守をしなければならず、グラムはその家に一人で一週間ほどいなくてはならなくなった。
毎日、芝生と花に水をやることとゴミを出すのが彼の仕事だった。
しかし、彼のボロは出た。
彼らが戻ってくると、芝生と花は水に飢えて乾いていた。酒を飲んでいた形跡。Keswickに電話をかけた記録は全くなく、メアリに電話をかけた記録だけが電話の明細にはっきり記されていた。
信仰心の強い彼らもここまでが限界で、すぐに出て行ってくれとグラムを追い出した。
12年前のグラムの行動は本当に悪魔のようだった。
かかわるな。であった。
話しは戻る。

今回もグラムがKeswickに乗気でないのは、彼の対応で分かった。
それが宗教的な理由であることも知っている。
けれど、ホムレスのグラム行くところは限られているように思えた。
かといって、本人の強い意思がなければ、どうにもならないというのも事実であった。

”これは万が一の手段として考えてみて。

と紙をベットの横の棚に置いた。

数日で病院を追い出されるのだから、膝が痛いと言って寝ている場合ではないと私は思う。
私の家は受け付けられないのである。

私達がそろそろ帰るという頃、看護婦さんが痛め止めの薬を持って来てくれた。
その看護婦さんに、
これが僕の息子だ。と自慢げにケントを紹介した。

そして、
”ビルに僕が入院していることを連絡してほしい。
それから、今度来るときひげ剃りとヘアスプレー、ブラシを持って来てほしいんだ。トラベル用のやつでいい。ひげ剃りは10ドルくらいで買える使い捨てのやつ。”
と言った。

”いつ来れるか、約束はできないわよ。”

”分かっている。もし、都合がよければだ。”

帰りの車の中でケントはこう言った。
”マム、ダッドは電話を肌身離さず持っていて、あれを貸してくれというのは無理だったよ。”

”分かっている。いろんなことが無理だった。Keswickには行かないと思うわ。

Keswickって何?

12年前の話をこの子にもしなくてはならなかった。

”宗教的に厳しいんだろ。ダッドは無理。”
と言い切った。

”でも居心地のいいところに送る訳にも行かないわよ。


う〜んと2人でうなってしまった。

2009年11月25日水曜日

13. 病院。

”ねぇ、ケント。アンタのダッドに会いにいく?

返事がない。

”会いになんて行きたくないよね。私だけでもいいかぁ。

”じゃ、行かなくてもいい?”
ほっとしている感じだ。そりゃそうか。

”そうよね。癌じゃなし。
と朝に会話を交わして、
また昼に同じことを聞くと、

”行かなくてもいいって言ったじゃないか。”

”そうだけど。アンタはいかなくても、やっぱ、私は行った方がいいと思うのよね.ひょっとしたら癌のこと調べてくれたかもしれないし。平日は行きたくないし。

”じゃ、行ってくれば?”

”そういう人ごとのようにいわないでくれる?
あの人は私の彼氏ではなくて、アンタのおとうさんなのよ。
一番、私が危惧するのは、私がこうしてあの人に優しくすると、私がグラムのことを好きだからしていると思われたくないのよ。あくまでも、私とあの人の関係には彼の息子のアンタが居ると云うことを分かっていて欲しいのよ。アンタなしで行くと、私はあの人の彼女みたいじゃないの。あの人はメアリが必要なのよ。
現在の状況において、メアリは彼の面倒を見ていないけれど。人道的に、こういう状態の人に ”勝手にしたら” と私は言えないのよ。しかも、うちに電話がかかってくるじゃない。
とにかく、グラムは自分の家がないのだから、この後どうなるのかも聞いてみないと。私には何のインフォもないし。その上、こうして、困ったときにだけに電話をかけてこられて、しばらく泊めてくれって言う訳だから。やっぱ、情報収集のためにも行った方がいいわ。 それから、いろんなこと一緒に聞いていて欲しいのよ。いざという時、私と同じことを聞いた人がいると裏付けになるし、、英語で分からないことがあっても、アンタに聞けるし。 やっぱ、アンタも一緒に来るべきだわ。

嫌そうな顔ではあったが、
”分かった。理にかなっているな。一緒に行くよ。”
と言った。

今度は場所が分かっているので、たった15分で着いた。しかも、停めるところも知っている。昨日と同じところが空いていた。

昨日の緊急の受付で面会したいというと、
Detox棟での面会は認められていないと言われた。
けれど、手紙やなんかは手渡してあげれるという。

”ドクターに話しはできないの?昨日,救急車で運ばれて、奥の部屋でドクターと話したのよ。そのドクターと話しがしたいわ。

”ドクターの名前は?”

おっと、私は名前など全く覚えていないのである。勿論、ケントも。
ケントがしきりに、あのドクターはギリシャのなまりがあったと言う。

”緊急室のドクターに聞いてくれない?彼女はギリシャなまりがあったって、息子が言っている。そう聞いてもらったら、名前、分からないかしら?

そこに座って待っていて。

待っている間、手紙を書くことにした。

ーー電話が出来る状態だったら、Keswick に電話をして欲しい。これがKeswickのインフォメーション。今を逃したら、立ち直るチャンスはないわ。私も一緒に助けるから、ここに電話して。

と書いた。

私達の隣りに黒人の女の人が彼女の兄と座っている。彼女はふらふらになって座っていることも出来ない状態。
酔っぱらっているのか?身体障害者なのか?
兄が病院の人に文句を言っていることから、私とケントは彼らの問題を理解し始めた。
どういう理由で緊急室に運ばれたのかは分からない。彼女の兄は誰かからか連絡があって、妹のトラブルを知ってルイジアナから出て来たらしい。その妹は薬を投与されて病院を出されるらしいが、立っていることも、座っていることすらできない状態。こんな状態の彼女をどうやってブルックリンまで連れて帰れというのだ。高いタクシーを呼べとでも言うのか?と兄は病院側に談判している。病院側は置いておけないので、帰ってもらわないとこちらも困ると聞く耳を持たない。
その理由が彼らの保険によるものなのか?
すでに処置はしたので、それ以上は病院の管轄ではないというのか?
私達には理由はよくわからない。
ケントはこの状況を”気の毒だ。”と私に耳打ちした。
私も気の毒だと思ったが、私の車で送りましょうかなどと言っている場合ではなかったので、見ているしか仕方がなかった。

待てど暮らせど誰も来そうにもないので、また受付に行ったら、違う人が立っているので、また同じ説明をした。すると、すぐに緊急室のドクターを呼んで来てくれた。
このドクターは隣りの黒人の兄妹のことやいろんなことでイライラを隠せないようで、私との話しもイライラしながら話した。
私の探しているグラムは緊急室にはもう居ないし、私達はもう彼の管轄ではなくなっているから、どうすることも出来ない。もう一度、受付に調べて貰いなさい。グッドラック。
ということだった。

あのドクターは、ストレスで一杯なんだわ。かわいそうなくらい,イライラしている。休養が必要だわ。 アンタの兄のクレークはERの医者になると言って大学で勉強しているけれど、彼にエマージェンシーが勤まるかしらねぇ。
と呟いてしまった。

もう一度、受付でグラムがどこに居るか調べてくれと頼んだ。
この人は丁寧に調べ直してくれた。すると、なんと、
グラムはDetox棟にはいなかった。どうやら身体に問題があって普通病棟で治療をうけている要なので、ここを出て隣りのビルに行きなさいと言ってくれた。

”最後まで諦めないことよね。ケント。 一緒に来てくれて、本当によかった。一人だとめげるわ。

全く、うちの子はこういうことに関しては、最高のつれである。
普通病棟ということは、やっぱり癌だったのかな?と頭をかすめたが、会えば何かが分かるし、最初に面会謝絶と云われて、諦めて帰らないで良かったとつくづく思った。

こうして可能性が見えるまで頑張ってみる。すると、うまくいくこともあるというのは、私がアメリカで学んだことである。
頑張っても無駄ということも確かにあるが、どちらに転ぶかは”人事を尽くして天命を待つ”か、私のサイキックに賭ける。

隣りの病棟は緊急病棟に比べると、ほっとさせてくれる。静かである。
緊急病棟はテンションが高すぎる。

グラムね。
とコンピューターで調べて、
6階で降りて右に曲がってください。xxx号室です。
また、ガードマンみたいな黒人の受付の人が言った。

私は何度も黒人の受付と繰り返したが、確かに黒人が多いのである。
しかも、受付がガードマンみたいというのは、この病院が始めてのことなので、つい、繰り返して書いてしまった。
この病院はハーレムにあるということを忘れてはいけない。昔はハーレムと云うとドキッとするほど怖いイメージがあったが、今は治安もよくなっている。
お洒落なレストランやお店も多いということも付け加えていきたい。
しかし、ここはニューヨークのハーレムでニュージャージではない。いくら治安はよくなってたといってもニューヨークである。

2009年11月18日水曜日

12. 癌騒動。

電話が鳴る。電話を取る。

"今、病院からかけているんだが。"
とかなり状態が悪いと思わす話し方。

どこの病院に居るの?

"セント、ルークス ホスピタル。
"

行こうか?

”いや、来なくていい。”
と言った後、

”ウエストサイド。
セント、ルークス ホスピタル。”
と繰り返す。

分かった。今から行くわ。

土曜日だったのでゼントもいた。
毎日,父親のことを聞かされているケントは,私のパニック状態を見て見ぬ振り。
内心は癌の父親がこのうちに来るのだろうか?とびくびくしていたに違いない。

私の母が後3ヶ月の命と電話をして来た時、アメリカで一緒に暮らすつもりで手術を受けた母だったから、母をここに引き取ってここで死んでもらおうと思った
私は航空券を買って、ベットを買って,車いすを買って、こちらの受け入れの準備をして迎えに行くと母に言った。結果的には全てはすでに手遅れで,アメリカを発つ前に母は危篤で病院に運ばれてしまった。
癌で死ぬ人間がここに来ると言い渡されたケントは何も言わなかった。
しかし、
私の予定は叶わず,アメリカを発つ10日前に母は危篤で病院に運ばれてしまった。
ケントは学校があるし、私はどれだけ日本に居ることになるのか皆目分からなかったので、ケントを友達に預けて、日本に帰ったのだが、こんな状況を彼はどう考えていたんだろう?
息子を友達にそう長く預けれるものでもなく、私も母と息子の板挟みになって落ち着かないので、ケントの冬休みに引っ掛ければ確実に2週間は日本に居れるので、彼の
航空券を買って日本に呼び寄せることにした。すると、母はケントの来る一日前に逝ってしまった。母は私を独占したかった。だからケントが来る前に、逝きたかった。私達はちゃんと最後の言葉を交わした。そして、母は逝った。
ケントは母のお通夜に日本に着いた。お通夜の際中となり、私が迎えにいけないので私の友達たちが空港に迎えにいった。12歳の子が一人でよくやってくれたと思う。
自分の家で癌患者の苦しみを見ながら、人が死ぬのを見なければならなかったことを考えると、一人で日本に行くことは簡単なことだったかもしれない。

しかし、今度は自分の父親だから避けれないかもしれないと思っているのかもしれなかった。

インターネットで病院を検索すると2つの住所が出ていて,どちらに行ったらいいか分からないので両方ともをプリントアウトして、急いで2人で出かけた。私は冷静なつもりでいたが,そうでもないのと分かったのは車を運転しだしてからで、ウエストに行くはずなのにイーストまで行ってしまって見つからない。イーストの59丁目をうろうろ。
工事をしている人にセント・ルークス病院は?と聞くと
ウエスト側
と言われた。
グラムは2.3年前はイーストの48丁目に10年近く住んでいたので,グラムと云えば、イーストと私の頭は単純に対応したようである。
ウエストに行く。病院を見つけた私は一方通行をさかさまに入ってしまい、タクシードライバーに指摘されて、Uターン。
ゼントは、ついに必要性を感じて、私に落ち着くようにと言った。

すぐに見つけた駐車場に車を入れ、病院の受付で、グラムの名前を言った。

そんな人は入院していない。
大きな中年の黒人の受付はつっけんどんに言った。受付というより,ガードマンと言った方がぴったりしている。

で、で、でも、本人から電話があって救急車で運ばれて入院しているというんで、彼の息子を連れて飛んで来たんです。

’いつの話しですか?”

今日の話しです。

”じゃ,向こうの病院にいるのかな。”
といって,調べてくれている。
あちこちの部署に電話してくれて、ようやく分かったのは、
Detox病棟にいるということ。

最初は怖そうだったけれど、ちゃんと説明すると親切だった。

この道をまっすぐ114丁目まで走ってください。右側にあります。
グッドラック。
と言った。

たった15分の駐車、許してくれないかなぁと言いながら、駐車場へ。
勿論,交渉したけれど、機械を通しているから僕にはどうすることの出来ないよ、と1時間分取られた。この辺りは安くない。

緊急だもんね。仕方ないかぁ。もう一回,駐車場代払いたくないなぁ。
ぶつぶつ,独り言。ケントは何も言わない。

病院を見つけ,ぐるっとその周りを走りながら駐車場もしくは路上パーキングを探した。
1ブロック先にスポットを見つけたが、停めていいのやらどうやら?
駐車違反は高いので、慎重に停めたいところだった。
ブラウンストーンのビルの前で痴話している黒人の住人に、
ここ停めてもいいのかなぁ?
と尋ねた。
”ストリートクリーニングの日以外は大丈夫。今日は週末だし、停めれるわよ。”
気のいい返事で、
病院に行くのでここに停めるわ。見張ってて。
というと、
”そうね。病院の近くにいくとスポットはないかもしれないし、ここに停めて歩いていったらいいわ。”

駐車代を今回は払わなくて済んだ。やはり、神様はいるのだ。

今度こそ、間違いのない病院の受付にグラムの名前を言うと、また、そんな患者は居ないと言われた。
私の問題点は英語力にある。
第1に、私たちはグラムは癌で入院していると思い込んでいた。
第2に、この時点に置いて私は”Detox”とは何であるか分かっていなかった。
ケントは”Detox”の意味が分かっていたかどうか?
ケントは私の英語力を助けなければならないのだが、この状況は英語力以前の問題と云うところもあった。

ここでもまた、グラムはどこに居るか調べて貰わなくてはならなかった。
この受付けもガードマンのような黒人さんである。
グラントの名を見つけた彼は、私達にここを出て隣りのビルの緊急病棟に行くように言った。

救急患者の受付。
ここには今まで会った黒人よりもっと大きくて若い強そうな黒人。しかもガードマンのユニフォームを来た人が立っている。受付ではなく、ガードマンなのだ。
グラムの名前は入院患者の中にはなく、まだ病室に移らず緊急室にいるとわかった。
その部屋は待合室の奥にあり、ドアのところにあるベルを鳴らし、患者の名前を言ったら入れてくれるはずと言った。
言われる通りにすると、すぐに私たちを入れ部屋に通した。

枕もない簡易ベットに薄い着物タイプのパジャマのトップだけを着て、毛布もなく、ただそこに寝かされているのだ。髪はぐしゃくしゃ、ひげもそっていない、手はもうここ何年が震えているので、なお惨めに見える。その上かなり痩せていた。
目を半開きにして私達を見るとグラムは凄く驚いて、

”どうしてここが分かったんだい。”
と聞いた。どうやら電話をしてきたことなど覚えていないようなのである。呆れて、

ミラクル

と答えた。ケントは笑いを堪えていた。

こんな父親の姿をケントが見るなんてかわいそうだと思ったが,すでに手遅れだ。ここは現実直視で人生のお勉強と思うしかない。
グラムは恐ろしく酒臭く、この入院が癌のためでないのは明らかだった。だからといって、癌でないと分かった訳ではない。
救急車に乗り込むときに転んで両足をひどく打ち、歩けないらしい。確かに膝は凄く腫れていて、すねには擦り傷があり、痛々しそうだった。ここに運ばれてから、ずーと検査だった、今はベットが空くのを待っていると言った。
私とゼントが来たことで感情的になって泣くので、横に腰をかけて手をこすってやった。
私は”霊気(Reiki)”を持っているので、痛いというところに手をかざした。
私はこの”霊気(Reiki)”でケントを育てたので、ケントは父親に、

”まぁ試しにしてもらいなよ。効くから”
と言った。

ケントにグラムと2人になっても大丈夫かと聞くと、イエスと言ってくれたので、私はその部屋をでて、ここで働いている人の部屋をノックしてみた。ガラス張りの部屋なので彼らが緊急患者の対応で忙しそうに働いているのはよくわかった。

”もしドクターが居たら、グラムのことで話しがしたいのです。”

というと、

”分かったわ。彼女の手があいたらそっちに行ってもらうわ。”
と親切に対応してくれた。

さほど、待たないうちに、ドクターは部屋に来てくれた。

ちょっと、話が、、、と目配せをして彼女に部屋を出てもらい別の部屋で、グラムと私達の関係を話し、グラムから膵臓癌だと昨日聞いて聞いていて、入院という電話を今日貰ってもらったので、こうして心配して来たのだ。と説明すると、

”癌?そんなこと聞いていないわ。もし癌なら、治療の仕方が違うわ。
ここには酒を抜き(Detox)に来ているだけのはず。ひどく転んだみたいなので、頭などはCTスキャンで調べたけれど、お腹の辺りは調べてないわ。血液検査をしたけれど、癌だと思わせる数値はなかったように思うんだけれど、でも、それは聞き捨てならないわね。本人聞いてみましょう。”
と、部屋に戻って、ドクターは優しい口調で、話し始めた。

”膵臓癌ってどこで見てもらったの?”

”イギリスで入院したときに、ドクターがそんなようなことを言ったんです。”

”CTスキャンを撮ったの?”

”いやぁ、イギリスはアメリカっと全く違ってシステムも貧困で、
そういった検査はしなかったけれど、医者が言ったんです。”

”そう、じゃぁ.ちゃんとした検査はしていないのね。ここで調べた数値は、これだけ酒を飲んでいるのに通常の人と変わらないものだったわ。”

ということは癌の根拠がない。膵臓癌はでっち上げ。
ここに来た収穫あり!
いくらグラムが失望の極地にいるとはいえ、同情が必要だったとはいえ、癌であるなどとよくいえたものだ!しかしこの件に関して、酔っぱらっている人間とまともに話す気はなかった。

グラムは名刺入れのような財布とそれと同じ大きさの電話(ブラックベリー・パール)とそのチャージャーをパジャマのポケットに入れて,それを握りしめていた。

ケントにメアリの電話番号が知りたい。なんとかあの携帯を手に入れないだろうか?と耳打ちした。ケントは任せてくれと言う目配せをしてこう言った。

”ダッド、ちょっと電話を見せてくれない?”

”あぁ、”

と見せた。
携帯電話の後ろのカバーがない。

”携帯、どうしたの?潰れているの?
ちょっと貸して?”

”どうやら、どこかにカバーを落として来てしまったようだな。Pのアパートかの知れないし、救急車の中かもしれない。転んだときになくしたのかも知れないし。”
と言って、携帯をまたポケットに入れてしまった。

ケントの作戦も失敗に終わった。

”明日、また来るわね。ウィークデーは学校や仕事で来れるかどうか分からないから。

”本当に来てくれてありがとう。”
といって、目を閉じた。

癌騒動でパニックになった私達は帰りの車の中で、
数値は普通の人と変わりなく、と言ったドクターの言葉を復唱して、80%まで癌ではないと確信して ”呆れるよなぁ” と話した。

”ミラクルは最高だったよ、マム”
と笑った。

2009年11月17日火曜日

11. カレンからの電話。

グラムが死ぬ前に、子供たちは会っておかなければとヘレンも躍起ではなく、メールではらちがあかないと電話してきた。

”困ったことになったわね。グラントが膵臓癌だなんて。フーディ,膵臓癌の知識ある?クレークもメディカルスチューデントだし、うちは理解しているけれど。”

ヘレン,勿論よ。私は両親を癌で亡くしているってこと、忘れた?
膵臓癌は発見されるのが、大抵は末期だから、もしグラムがそうだったら、手遅れということになるわね。

”そうだったわね。ご両親のこと、ごめんなさい。グラムはあなたにはなんて言ったの?”

そういえば、後5ヶ月とか言っていたような?
5ヶ月の治療が必要って言った気がする。私は親のことがあるんで、癌と聞くと取り乱すし、冷静に聞いているつもりでも、少しパニクったかも。

”とにかく、クレークとジュリアは彼に会わなくちゃいけないわ。ジュリアは結果的には卒業出来たのよ。カレッジも決まって、いろいろと用意で忙しいし、クレークも学校があるし。
どうしたらいいのかしら?どこにグラムは居るのかしら?”

私は日本から帰って来たその日に、そこに泊まらせてくれなどという唐突なメールがきて,癌だという電話が昨日で、時差ぼけやなんかで、何をどうしたらいいかさっぱり分からない。

”気の毒だわね。でも、いつまで彼はもつのかしら?”

へレンはグラムがすぐにでも死ぬのもだという設定の元に話しを進めている。

私の経験では、彼が末期の状態だったら、グラム次第だと思う。うちの父のように彼が癌だということ知らせなかったら、結構、持ったし、母は自分で死期を決めたというところがあったし、グラムの場合も、彼がもうこれでいいと現世に生きるのを諦めたら、死は早いかもしれない。こちらの用があるから,死ぬなともいえないと思うわよ。

”そうね。3ヶ月くらい?”

3ヶ月しても5ヶ月にしても,身体は衰えていくだけだから,会えるときに会っておかないと話しも出来なくなるかもよ。人によるもの。

”とにかく,グラムがどこにいるかを見つけて,うちの子達をそっちにやるわ。”

クレーク
は電話するって言って,電話してこないけれど?

”友達と車でカナダに行ったのよ。楽しんでるのよ。
と彼が電話してこないことのいい訳を言った。”

要はクレークは自分の人生で忙しくて、一緒に育ったことのない父親が死ぬかどうかと心配してると言っても,その存在は頭の5%くらいの場所にあるか?ないか?程度なのだろう。
私は何度も電話したり,メールを残したりしたが,返事はなかなかなく、メールが一度返って来たがそこには、”電話を持って出かけるのを忘れてメッセージがあったこと知らなかった。今晩、電話する。”などと言ったまま、それっきり連絡はないのである。

へレン,もう少し何かが分かったら,そっちに連絡するわ。
イギリスにも聞いてみた方がいいかしら?ジョージとパムは凄い勢いで,グラムを嫌っているし。

”残念なことね。でも、あの2人には歴史が。グラムはよっぽどひどいことをしたのね。とにかく、グラムが癌であるかどうかも突き止めないといけないわね。”

そうね。全く,どうしたらいいものやら。

と電話を切った。

私の帰国後の予定は,9月25日締め切りのキルトのコンテストに出す作品作り。その勢いで,10月10日のキルトショーと11月9日の東京でのグループ展の作品作りに没頭する!であった。
グラム騒動は私の予定を精神的にプロックする状態での介入。
それにもめげずにアイディアをスケッチブックに書くという戦い。
この期間にケントのアイスホッケーの泊まりがけのトーナメントが2つもある。

一体いつ仕事をしろというのだ。

ホームレスが癌なら,ここに来るしかないのだろうか?
私は癌で苦しむ両親を看病した日々を思い出した。
あぁ、どうして神様は癌患者をまた私のところに送り込むのだろう?

父親に会わなければと言っている2人が来るとしたら,ケントも兄姉に会っておいた方がいいので,3人を一緒にして私が面倒を見る、ということは、私の仕事がまた増えることになるのだ。

私はメアリにまた、腹がったった。
一体彼女は,彼女のしていることが,こうしてグラムの子供を持つ私達のところにとばっちりとなってくるということを考えることが出来ないのだろうか?
この12年間,自分たちの好き放題で,グラムの子供の面倒を時間的にも金銭的にも全く見ず、ここでグラムを突然,イギリスに帰すなどという手段で終わらせ,後のことは知らないというつもりなのだろうか?

私はこの女に文句すらいえないのか?

グラムは本当に死ぬのか?

2009年11月12日木曜日

10. 日本から戻ると。

日本から戻って、メールのチェックをしていると
早速グラムから、25日ぶりのメール。

そこに2,3日泊めてくれないか?

私達は今帰ったところで荷物も開けていなし、時差ぼけだし、くたくたよ。


オ− マイ ゴット。早速、始まった。
次の日の朝,電話。

ハロー

”フージ、日本はどうだった?楽しんで来たかい?”
明るく話そうとしているが、今にでも声のトーンが落ちそうな話し方。

まぁ、それなりに。母の居ない家に帰って片付けはつらい。

”フージ、僕はもう駄目なんだ。あぁ、とてもつらい。実は俺は膵臓癌なんだ。カレンにも電話した。”

しばらくのサイレント。

”くそー、酒の奴。”
と言うが、どうやら泣いているようである。

”詳しいことは来週、医者に会うのでその時分かる。”

来週のいつ?私は仕事先に行く予定があるけれど、一緒に病院に行こうか?

”いや、一人で大丈夫だ。”

そう、本当に大丈夫? じゃ、詳しいことが分かったら電話ちょうだい?

泣きながら彼は電話を切った。

私の居ない間、グラムの状況は好転している訳もなかった。
これは2度目の癌報告である。ああれだけ酒を飲んでいたら、身体を壊すのが普通なので、信じようと思えば、簡単に信じられる話なのである。

しかし、この言葉は2年前にも聞いているのである。
あれは父の日の前の日で、私達は父の日にサッカーのトーナメントに行くので見に来ないかと誘ったとき、グラムは自分は癌だと言ったのだ。
その次の日に母が電話して来て、私がグラムのことを言うと、私も言わなくちゃいけないことがあるのだけど、と口を濁した。

なに?いいこと悪いこと?

グラムと同じ。

どこの?

女にしかないところ。

で、どのくらい悪いの?

ここ一年,抗がん剤を打って、少し良くなったから手術をしようと思うの。

いつ?

2週間後。

母が末期の乳癌で手術をするというのだ。彼女は今日という日まで全く彼女の病状をはなさなかった。
私は息子の行き先が決まり次第、日本に飛んだ。日本には手術の3日前に着いた。
私の第2のブラックホール、第1の時とはまた違った深いブラックホールに入ってしまった。しかも、それは父と同じで、嫌もっと長くかかるのかもしれない。私が死ぬまで引きずるのかもしれない。
その母は死んでしまったのに、グラムは生きているのである。
しかし、両親を癌で亡くした私には聞き流せない話である。

2年前、彼はケントのサッカートーナメントに来るはずだった。彼は3時間も迷ってトーナメントに来たときには全ての試合は終わっていた。
彼が来ることが分っていたので、私達はチームメイトの車に同乗して行ったので、グラムが来るのを待たなければならなかった。私達は呆れて口もきけなかった。
メアリの4WD,ハイクラスのレンジローバーで来た。それに同乗したが、彼が酔っぱらっているのは明らかで、あの運転の横には座っていれず、私に運転させてくれと頼んだ。
高い車だからとグラムは言ってくれたが、高かろうと安かろうと私の方が確実に安全運転できる。高速道路の路肩に停めさせて、私に変わってもらった。
癌で死ぬと言っている人が息子のトーナメントにも来れず、車が運転出来ないほど、酔っぱらっている。なんということだ。
家で仮眠させ、グラムは起きると帰らなくてはいけないと言って帰って行った。

一体、何しに来たのか?

私は彼の生活のことを尋かない、この状態においても尋かない。
尋いたところでその話の裏付けは誰からも得られないのだし、私にどうすることも出来ない。
その上、彼は、
大丈夫。何とかする。心配しなくていい。
と答えるのを知っている。

この辺りから、メアリとはもう終わったと口に出していたが、ニューヨークを引き払ってコネチカットに引っ越したのもメアリの本宅の近くだったし、うちに来るときはこの車かレキサスで来た。どちらもメアリのである。彼の仕事の社長もメアリ。
メアリにはもうお金がないとも言い出した。1ブロックの地所を持っていると言ったのは、そこに遊びに行ったゼントの話だが、その家を売って引っ越したとも聞いた。
一体何が起こっているのか?

ケントはこう言った。
5億持っている人が4億失してお金がないと言うけれど、まだ1億持っている。
僕たちはその1億も持っていない。

12歳の子の言葉としては名言だと思う。

メアリの金銭状態はしらないが、うちに養育費は入っていないのは確かである。

私はへレンにメールした。
日本から帰って来たんだけど、グラムから連絡あった?
と簡単なメールにした。

おかえり,フーディ、楽しい旅行だったと思うけれど、どうだった? グラムから、日曜日の夕方頃電話があったわ。私たちは、結構沢山話したけれど、私はオヘア空港に居て、雑音がするし、聞き取りにくかったの。しかも、グラムは膵臓癌だと言って泣くし。 彼はスコットランドに帰ろうかと思っているが、まだビルとキャロルには話していなし、決まっている訳ではないとも言っていたわ。彼は非常に感情的で不安定な感じ。彼は友達のところに居候しているけれど、友達の彼女がグラムに出て行って欲しいと言っているらしいわ。彼が行くところはどこもないと思うのよ。この先、彼がどうなるのか想像もできないわ。

子供たちにこの週の初めに彼の膵臓癌のこと話したわ。クレークは火曜日からグラムに連絡しているけれど、グラムから音沙汰がないらしいわ。 私もグラムに今後のこととか聞いているんだけれど、何も言ってこない.ジュリアはマイクとファイスブックで話したけれど、マイクは何も知らないと言っているようだわ。こんな状態だから何を信じたらいいのか分からない。クレークは心配しているし。

グラントのこと分かったら連絡ちょうだい。私は寝るわ.明日、ジュリアをカレッジに連れて行かなくてはならないし、クレークは来週から1週間、こっちに戻ってくる。
それじゃ、また。

と言う長いメールが戻って来た。

クレークからグラムはどこにいるかというメールは貰ったけれど、私も居所を知らないの。
クレークに電話して来てくれるようにいったんだけど。ジョージにも電話した。留守番電話に入っていたから。私が日本に帰っていることを忘れていたらしいわ。
グラムが電話して来たときのこと、もう少し詳しく話して。
電話ちょうだい。

と返した。

グラムから連絡があったら、とにかくこっちに連絡ちょうだい。
クレークとジュリアは彼に会わなくちゃ。
彼がかけて来たときには、恐怖感、自責の念、涙もろく。おそらく、酔っぱらっていたのでは?よくわからないのよ、ずーっと泣いていたし。なんか悲しかったわ。
今日も一日働いて疲れてしまっているから、後日電話する。
じゃ。ラブ

どうやら、うちと同じ状況らしいということは分かった。
うちに泊めてくれというメールの理由も分かった。

2009年11月11日水曜日

9. 養育費と彼のお金。

グラムのように貧しい家の出なのに、自分のお金を全く持たないで人並み以上の生活をしてきた人を見たことがない。

へレンの話ではへレンとの結婚していたときも、彼は稼いでいなかったというし。
勿論、私との生活はすでに述べた通りである。

彼は12年、メアリのお金で生きていた。しかも、一流の生活をして来た。
どんな優雅な生活をしていても、彼の本当の生活じゃない。
彼には全くお金がないどころか、借金だらけ。
だから、私達のところにお金は入らないのである。

離婚の時、彼は職があった.しかも何を企んでいた知らないが、メアリは某有名雑誌の社長を自ら退いて、某広告代理店にグラム一緒に主要なポジションで勤めた。彼女の退職は広告業界の新聞に1/4の大きさで写真入りで載っていた。それを見つけたのは私達の仲のいい友達で、彼も広告業界でランチを食べながら読んでいたら、見つけたのだと電話して来た。その新聞は彼から貰い、それはまだ私の引き出しにある。新しい会社、某広告代理店のウェブの社員紹介にメアリとグラムのプロファイルが載っていたと連絡があった。それは確かクレークかへレンだったと思う。
これらの情報のお陰で離婚の時、彼は無職を主張出来ず、私は養育費を請求することは出来た。私はチャイルドサポートを通して支払うように設定したので、彼の未納は全て記録に残る。

相変わらず、仕事に安定がない彼は、何度か無職を主張して裁判に値下げの申告をしたが、受け入れられなかった。おそらく7,8年ほど前、チャイルドサポートが裁判に持っていき、滞納を納めないと牢屋にというとこまで来たとき、彼はその滞納を一度に払ったが、それからも滞納が続いて今はその時の金額の倍以上になっている。
おそらく、へレンのところは2人居るし、ずーっと払っていないはずなので私の3倍くらいは溜まっていると思われる。

私たちが2人で税金を申告した一年分の税金の話は前回したが、あの税金は支払われていなかった。
10年経ってから、私のところに請求が来た。その時の10倍以上になっていた。
そして、私が働いている会社に私の給料の差し押さえ状が行ったのである。

全く、恥ずかしい話である。

私の会計士に助けを求めた。その時、彼がしてくれたのは、会社への差し押さえを却下させ、分割払いの設定。月々,100ドル。すでに7000ドルになってしまっている支払いに100ドルずつではいつまでかかることやら。会計士は私に半分私が払ってグラムが半分と交渉しようとしたが、私はその半分を払うのも嫌だった。
誰が教えてくれたのか忘れたが、無実の申し出を税務署してみればいいということだった。人からの情報は役に立つ。その書類を自分で揃えワシントンDCに送った。
返事は却下。残念だった。
グラムが払わない限り、私のところに請求書は来るのだ。彼の名前とソーシャルセキュリティナンバーと一緒に。
何度もグラムに電話やメールで頼むから払ってくれというといつもこう言った。

大丈夫、払うから、心配しなくていい。

この答えを10年聞いているのである。そして払うはずがないのである。

そのことで私に怒鳴ったりはしないので、それだけでもマシとしたいところだった。

ある晴れた日のお昼過ぎ、税務署ですと女性のオフィサーが家に来た。そしてバッジを見せる。
ついに私は逮捕されるのかと思った。
彼女はこう言った。

”偶然、あなたの無実の申請の書類を読んだのよ。こんなひどい話は聞いたことがないわ。ワシントンDCのお役所に出したって、みんないい加減にしか読まないのよ。あなたは今の時点ではまだ、裁判に持ち込むことが出来るのよ。後一ヶ月あるわ。頼むから、裁判所に書類を出して。”

”私,本当にあのお金払いたくないんです。”

”払わなければいいわ。分かった?書類を出すのよ。分からないことがあったら電話ちょうだい。”

と名刺を置いていった。確かにオフィサーと書かれてある。
こんなことがありえるのか?といろんな人に聞いたが、10人中10人があり得ないと言った。

彼女の言う通りに、私は裁判所に書類を送った。
払わなくていいと言ったので、会計士がセットした毎月の支払いもしなかった。
それから、1年ほどして手紙が来たが、その意味が分からない。
お役所の手紙は用件が分かりにくい。
仕方なく、そこにあった電話番号の弁護士に電話すると、
あれは意味のない手紙ですから捨てても構いませんよ。一度逢ってお話しした方がいいですね。
では逢いましょうということになった。
意味のない手紙をなぜ送って来るのだ!
彼は国のお抱え弁護士、あちら側の弁護士である。
彼はこう言った。

証拠が不十分で長い間,保留にされていた件なんです。必要書類を2週間以内に揃えれますか?
その内容によって、裁判にかけずに処理出来ると思います。

勿論覚えているうちにやらないと忘れるので、すぐ揃えて送った。
それから2.3ヶ月後に手紙が来た。
私の無実は受理され、この税金を払う必要がないという手紙だった。
今度のお役所の手紙は非常に意味のあるものだった。
この出来事はミラクルである。あれから12年後のことだった。
そして、うちに2度と請求書は来ない。
あの恐ろしく跳ね上がった税金の滞納もグラムは抱えているはずである。
税金の滞納は牢獄行きである。

この税金から免除されて依頼、私はグラムに金を払えと言った事がない。
彼の借金で追い回されないだけでも良しとしなければならない。
こんなグラムから貰うべきしてもらえない養育費のことで掛け合うより、諦めて自分で稼ぐ努力にエネルギーを使う方が懸命なのである。

8. 子供を産むということ。

私は1993年にアメリカに来る前に2人の重要な人間を失っている。
一人は私の父。
父は4年という長い癌との闘病の後、64歳の若さで他界した。私はアメリカで生活出来るチャンスを捨てて、父の看病を母とし、父の墓を建てるまで日本に滞在した。
この時のことを、第一回めのブラックホールと呼んでいる。
全てが反対方向に向いていたと言っていいような気がする。私は日々に痩せて動けなる父の"死”を恐がり、そして自分も失っていた。
私は父の亡くなる前の40日間、父の病室で寝た。病院から、父は私のことしか聞かないので泊まり込んでもらわなくてはならないといわれたのである。
私は父と同じ天井を毎日見ていた。
腎臓がんの父と同じように血尿が出た。
その検査のときも父と同じ天井を見た。
私はこの天井を見て死ねないと思った。
父の最後の言葉の1つに、
”孫を見れなかったことが後悔だ。今からでも間に合う、作ってこい。”
などと言ってくれたのである。
生きていれば冗談だが、他界されると34歳になっていた私にはこの言葉は重くのしかかった。それは私自身の年齢にもあって、余り考えている時間もなさそうに思えた。

私は父が亡くなった時、神に祈ったのである。

どうか、偶然に子供を授けてください。出来れば、その子供の父親はヨーロッパ人で、私は自分の子供を一人っ子にしたくないのと、おそらく私は一人しか産めないので、既に子供のある人にしてください。

もう一人は私をデザインの世界に入る影響を与えた人。
父が死にかけている頃、彼女が病気で入院中と聞いて、彼女に似合いそうなパジャマを買って見舞いに行った。
彼女は私の8歳年上で、彼女のしていることは全てがカッコ良く見えたものだ。彼女みたいにかっこいいデザイナーになろうなどと高校生の私は憧れた。
けれど、彼女はいつも私を特別な友達として扱ってくれた。
でも、8歳上だから、彼女の人生は私より1,2歩先だった。私が彼女と知り合ったときは彼女は既に結婚していたし、私が働きだしたときには、母になっていた。
私が見舞いに行くと凄く嬉しそうで、ガウンを羽織って、

”下に行って、話しよう。”

と言った。
私は父の闘病で長いこと患者を診ているし、多くの人を見送ったりしていたので、彼女の病状を聞く気になれなかったので、どこが何れだけ悪かったのか、今も知らない。
尿の袋をぶら下げていたことは覚えている。それを悲しく思ったことを覚えている。

”フリ,幾つになった?”

私が17のときから知っている彼女はこんな風に話し始めた。

”34歳。

”わぁ、そんなになるの?37歳で子供産みなさい。厄払いになるわ。
私は退院したら、今度こそ、人生やり直すの。離婚するわ。父のところに帰る。”

彼女の顔は輝いていて,決して悲惨そうでなかった。

私がアメリカに発つ頃、私達の共通の友達と道で出会った。
彼が、彼女の死を教えてくれた。
彼女のご主人はほとんど誰にも彼女の死を連絡しなかったのことだった。
当然、私にも連絡がなかった。

父を亡くしてから、私は毎日のように生きている父の夢を見た。父は一言も喋らないのだが,仕事に行っては帰って来るのである。
私は子供を授かったことをその瞬間に知った。
そして、その日からぴたっと父は夢に出てこなくなったのである。
ケントは神の子だった。

そして,私は37歳だった。

7. 12年とは一回り。

ケントが産まれて3ヶ月した頃、私達はクレークとジュリアに彼らの弟を紹介するために車でシカゴまで走った。その時の私達の車は中古車のトウラスワゴンで猛暑で死者が出ているというシカゴに向かっていた。

”ほら見てみろ、あの車、立ち往生しているぞ。”

とグラムは言った。

そうやって人の災難を笑っていると、神様は私達に災難を下さるわよとたしなめて、5分後。

突然、エアコンがきかなくなった。どうやらガスが漏れていてなくなってしまったようだった。

ー私達と神様の関係は非常に親密である。

凄く暑かった。運転しているグラムの腕から汗は滴り落ちていた。

16時間の運転となるので途中でモーテルに一泊しなければならなかった。そのホテルのプールを見た時、私は3ヶ月の赤ん坊を抱いたまま、飛び込みそうになるほど暑かった。

グラムが私に、


”赤ん坊は部屋に置いていった方がいいんじゃないか?”


と言ったのを覚えている。

あれほどシカゴでホテルを予約するように言っておいたのに、グラムはホテルも予約していなかった。エアコンのない車に8歳と4歳の子供を乗せてホテルを探しをしなければならなかった。選んでいる余裕もなく、お陰で私は高いホテル代を払わなくてはならなかった。
この状態でも私にとって何よりだったのは、グラムの子供たちは私になついていたし、ケントをおもちゃのようにして可愛がった。私もこの子たちを可愛いと思った。
私は彼らとの関係を嬉しく思った。


ニュージャージに戻るとグラムは機嫌が悪かった。また、子供たちに逢って、昔の金持ち時代を思い出したか?私が仕事している間、カウチに座ってビールを飲んで映画を見ていた。

急に嫌みなことを私に言った。


”見てみろ。この女はお前のような嫌な女だ。”


私のグラムに対する我慢は随分前に頂点に達していた。

しかも、大枚はたいてアンタのためにシカゴまで行って、子供たちに逢わしてやったのに何様だと思っているんだと頭に来た。


”働きもしない酒を飲んでいるだけの大バカ者に言われる筋合いはないわ。”


すると、グラムは恐ろしく怒って、これは俺の自己防衛だといって私の腕をねじって私の顔をベットに伏せて、謝れと言った。

私は抵抗すると骨が折れると思ったので、抵抗をせず全身の力を抜いた。

これは効果があった。痛かったが、身体は柔軟になる。

その後、私をカウチにまで引きずっていき、上向けにして、私のクビを閉めた。

私はこうやって死んでいくんだと思っことを忘れない。

但し、身体の力を抜いてやられるままにしていたので、グラムはふと我に返って退いた。

私のような悪魔は俺の子供たちに近づいてはならないと罵ったが、もう私には触れなかった。

そしてグラムはベットルームに行って眠ったようだった。


私はリビングルームの端に座ったまま朝まで動けなかった。

一度寝て酒の冷めたグラムは人が違ったように優しい言い方で、朝方、泣き続けるケントにミルクを飲ませるようにと言った。


私はその次の日、知り合いのところにケントを連れて泊まりにいった。

怖くてとてもあの家にはいれなかった。

この時、始めて他人に自分の事情を説明して助けを求めた。

アメリカでのアル中のリハビリのシステムなどを知ったのはこの頃からであった。

多くの人がアル中との生活で苦労をしていることも知った。恥じることはないのだ。


暴力沙汰を他言されたグラムは人の忠告もあり、この出来事を深く後悔したようであった。酒をやめたい、やり直したいと週に二日、A. A.ミーティングに通いだした。

A. A.ミーティングはアル中の本人が行くミーティング、Al-anon ミーティングとはアル中を抱える家族が行くミーティング。私はそれにはなかなか行けなかった。

グラムは私が勧めた本屋で働くことに同意して働きだした。時給6ドル。時間から時間と働くようになると、それも酒のコントロールに役立った。しかも他の人と外で接するのも良かった。

グラムのこの酒を飲まない期間は結構続いた。

酒を飲まないといいこともあるもので、更生しようとするグラムの為に私達の数少ない友達も次の仕事の推薦状も書いてくれた。勿論、みんなは私とケントの生活を心配してを救ってやりたかったのだと思う。

するとNYのクラースラービルある広告代理店に送った履歴書が採用され、面接も受かって、ついに人並みな就職を決めた。

グラムは私に感謝し、出張でカリブに行った時、ダイヤモンドの結婚指輪を買って来たということもあった。グラムが帰って来るのをゼントと前庭で遊びながら待ったということもあった。

ケントが父親に向かって走っていく。そのケントを抱きかかえる。

まるで映画のようなシーンもあった。

ほんの短い期間のいい思い出も少しはある。


その頃、移民局は毎年,毎年,法律を変えた。

この年、グリーンカード待ちで滞在している私のような立場の人間は不法滞在とすると発表した。この発表後、強制送還を恐れて自ら帰った者も多かった。それが移民局の狙いで、彼らは彼らの金を使わず、不法滞在者を追い出したかったのである。私も強制送還を恐れて何らかの方法はないかと2.3人の弁護士をグラントと訪ねた。グリーンカード保持者からの申請だと7,8年かかるが、アメリカ市民からだと半年ぐらいで取れる。グラムがアメリカ人になるのが、一番の解決策だった。

そうすれば,私は一年以内にグリーンカードを貰える。

それには、3年分の税金の申告書が必要だった。


グラムはアメリカ人になることに協力的でなかった。


その理由の1つは彼の犯罪歴。

もう1つの理由は3年以上も税金の申告をしていないことだった。
犯罪歴のことはよくわからないが,とにかく、税金の申告はさせることにした。
一年分だけ2人の収入を一緒に申告した。その方が、子供の免除がおりるとか,そういった理由を会計士が言ったからだと思う。
これは私が出産した後で彼が就職していたので、ほとんど彼の収入に対する税金だったので彼が払う税金で私のではなかった。そして,私は彼が払ったものと信じていた。


それでも彼はアメリカ市民になる申請はしなかった。

この状態の頃、グラムはこの会社から昇進で別会社に移る話が来た。
そして、会社を変わってすぐにメアリとの出会いがあった。

それが12年前なのである。

メアリに出会い,その地位とパワーと彼女の美貌にぞっこんしたグラムは私の存在をゴミのように思った。
双方の立場は不倫、仕事に絡ませた関係。
グラントは自分を自分以上の人間仕立て上げて,多くの人と付き合っているから、それがばれることに恐怖感で酒を飲んだ。
酒を沢山、沢山飲んだ。

毎晩,酔っぱらって帰って来た。


ある日、グラムの財布にメアリの写真を見つけた。私は衝動でその夜、家を出て近くの墓地で朝まで過ごした。私は情けなかった。ビザで脅されて暮らしている自分が情けなかった。

あの女は地位も金もある。一体、私に何をしたいのだ?

決して負けない思った。


”俺に逆らえば、移民局に通報してやる。

メアリはFBIと通じている。”


この脅しは日増しにひどくなった。


一度殺されかけている私は酒を飲んでいるグラムには近づけなかった。

彼が帰ってくると、ケントの部屋に鍵を閉めて寝た。


私はこの時点においてグリーンカード取得以外の理由ではグラムはいらなかった。

6. 12年前のその前。

グラムからの”電話”で始まるこの話は,丁度12年を一回りしたところから始まっている。12年前にメアリと出会い、メアリに捨てられた。しかも、同じ季節である。

だから12年前のフラッシュバックの話を書く前に、その前のことに触れておかなければならない。

グラムと知り合った時に、彼のアル中を発見出来なかった私は馬鹿であるが、言い訳がある。

私はグラムと旅先で知り合った。五日間だけの出会いでその後、彼はシカゴ、私はニュージャージ、電話や手紙でつきあった。彼はイギリスに帰るような話をしていたし、私達の今後の進展は全ては彼の決断にあるように思えた。イギリスに一緒に来ないかとは誘われたが、私はイギリスにもシカゴにも行く気はなかった。それからほぼ2ヶ月後、グラムはNYに来て私の面倒を見るのだと言い出し、そして、突然、飛んで来たのである。

その時の話はいまだに私のお気に入りである。

私は空港に迎え行ったが、たった五日間の恋で2ヶ月も経つので顔を覚えているかどうか不安だった。けれど、グラムは出会ったときと同じ印象の紳士だった。

グラムはとても嬉しそうに,

”君に見せたい物があるんだ。”

と言った。

アパートに着くとその紳士はいきなりズボンを少しずらして、彼の後ろ側の腰の辺りを見せた。
スコットランドの母方の家紋,ボブキャットの入れ墨、そのとなりになんとハンコの入れ墨が、、、!

彼は私の送った手紙にあったハンコを入れ墨して,ニュージャージにやって来たのである。そのハンコには,アートスタジオフーディと書かれていた。日本語が読めない彼は,このハンコに私の本名が書かれていると信じ込んでいたらしい。
申し訳ないが、私は呆れて笑ってしまった。

”歩く広告?”

グラムは苦笑いだった。

”どうしてラブレターに会社のハンコを押したんだい?”

と聞いた。

”私の描いた絵にあのハンコは効果的に見えたし。デザイン上の理由で。”

彼の入れ墨は私への愛であったのか? 彼が人生を変えようと言う強い意志だったのか? ただ私を利用しようとしたのか? 何だったのだろう。

ニューヨークには友達が居て,そこに連絡すればすぐに仕事が取れる。と,彼は言っていた。私はアメリカに来てまだ一年も経たず、私のアメリカでの生活は山のものやら海のものやら分からない状態で,学校に通っていたが,お金も学費で使い果たしたので、フリーランスでテキスタイルの仕事を始めていた。しかも、ラッキーにも人並みに稼いでいた。

グラムが来たので,ルームメートも彼氏と住むと決めて引っ越すことになった。グラムはシカゴの倉庫に預けている彼の家具を取りに帰った。お金がもったいないから、引っ越しトラックの中ソファで一晩寝たといって二日で戻って来た。

その後,グラムはこう言った。

”もうお金がない。”

”誰かが私の面倒を見る”という私の夢は一瞬にして消え去るのだ。

グラムとの生活が始まると、ベットとタンスとソファと鍋以外のもの、家賃,光熱費,2人分の食費、彼の酒代、ルームメイトと共有していた車は彼女が持っていってしまったので、車の購入。突然3倍以上の支払いが私に背負い込んだ。

それもグラムの仕事が見つかるまでのはずだった。
NYの友達に会いにいったが、彼が私に話したような間柄でなかったのか? とにかく仕事にはありつけなかった。それから,履歴書を書いて仕事探しに入ったが、思い通りに行かず、仕事はそう簡単に見つからなかった。

グラムは酒を飲み始めた。

問題はこの状態で私が妊娠したことである。父が糖尿病だったので、やや早い時期に検査をするとやはり妊娠性糖尿病にかかっており、毎週病院で食事制限のチェックを受け、インスリンの量を調節しなければならなかった。いくら食事制限をしても、数値は大幅に上がったり、下がったりした。全てはストレスがなす数字で、グラムのお陰で私は問題だらけの妊婦だった。

生活のために朝から晩まで仕事をした。絵を描いた。仕事は次から次へとあったので、私は時間があるだけ、仕事をした。納品はグラムの運転でNYまで、私達は知り合いのいつ潰れてもおかしくない車に安い中古車が見つかるまで乗っていた。そして何度も潰れて動かなかった。私達は朝から晩まで一緒にいた。グラムはお金もないし,友達もいないので出かけたくても,出かけられない。私の収入はグラムに隠していた。私は貧乏を装い、彼にお金を渡さなかった。私は出産後の3ヶ月分まで貯めなくてはならなかったし、私の稼ぎで赤ん坊のために買わなくてはならないものは沢山あったし、彼の酒代に化けていくわけにはいかなかった。金持ちとの暮らしをして来た彼にとって、貧乏なアジア人との暮らしはより一層彼の人生を悲惨に思わせた。

毎日のようにへレンとの優雅な暮らしの話をして聞かせた。

グラムは19歳でシモンと結婚した。彼女はシンガーでグラムはピアノマンだった。グラムはアコーディオン弾きでもあった。彼らはブラックプールなどでショービジネスで食べていた。ラッキーにもクィーンエリザベス2でバンドとして雇われることになった。へレンとはこのクィーンエリザベス2で出会っている。へレンがいかに金持ちのお嬢さんであるかはクィーンエリザベス2でイギリスに行ったというだけで充分なインフォネーションである。彼らの始まりは不倫だったのか?と思うことはあるが、グラムがシモンからへレンへ移って行く話は聞いていない。

グラムのピアノは確かに凄くうまい。けれど、悲しいことに酒や鬱病の薬の投与で今は手が震えてもう弾けないのである。

*なぜ、タイトルのデザインがピアノであるのか?その答えはここにある!

へレンとグラムは結婚してへレンの叔父のいるロスに住んだ。ロスでの優雅な話しをしてくれる。そこで長男のクレークは産まれる。プライベートドクターの話。旅行の話。へレンの話。それを聞きながら,プライベートドクターを持たない妊婦の私は生活のために仕事をし、インスリンを打った。

ルームメイトの部屋は私達の寝室になり、私の部屋は彼の仕事部屋となり、そこにへレンと行った旅行の写真、スキューバーダイビングの写真やブラックプールでのショービジネスの写真を貼った。余程、その時のことが恋しいのだろう。彼らがロスに居た年。クレークが産まれた年。私もロスに居たのである。私は彼らの住んでいる20分先のところに住んでいた。勿論、私は彼らのように優雅な暮らしはしていなかった。

ある日、私が納品から戻ると、裁判所から脅しの連絡があったと酒を飲んで鬱になり、恐ろしく機嫌が悪かった。へレンとの離婚後、牢屋に放り込まれていたということである。理由や期間をその時、グラムは私に話したのかもしれないが、私は覚えていない。その裁判はまだ解決してもいないのにニュージャージに来たようなのである。要はグラムは逃亡者である。

言いたくはないが、私は彼の隠れ家になったのだ。愛でも恋でもなんでもない。それが今、分かっても、既に手遅れである。

この事件の裁判のためにシカゴに帰らせたことがある。ついでに彼の2人の子供に会いたいというので、ホテル代と飛行機代と必要な小遣いを渡した。彼は丁度、クリスマスイブに戻ってくるので,晩ご飯を食べに行こうということになっていたが,グラムは空港で酒を飲んで夜中まで帰ってこなかった。酒を飲んだ理由は,子供たちに会うと、昔の金持ちだった生活を思い出して,惨めになるらしい。私の800ドルを使い果たして、今の貧乏な生活に怒っているのだ。そして、私を”馬鹿なアジア人”と侮辱するのだ。

最も私の人生で問題だったのはこの不安定な健康状態での妊娠で安定した仕事先があるにもかかわらず、その会社に努めて仕事用のビザを取るということができなかったことにある。

ケントが産まれる前に私達は結婚して彼をスポンサーにして私のグリーンカードを申請する方法しかなかったことである。グラムのアル中が分かっていたので、出来れば結婚はしたくなかった。しかし、アメリカに残って、この子を育てるには結婚しかなかった。私達は出産の2ヶ月前に籍を入れ、グリーンカードの申請をした。

彼の裁判沙汰は、クリスマスの時で終わっていなかった。罰金を払わなくてはいけないのを滞納していたようだった。それの支払いの期限が、私の出産、帝王切開の10日後だった。

そのことで怯えて酒を飲む夫に何が言えただろう?

産まれた赤ん坊は肺炎でしばらく入院していて、赤ん坊の退院の日が,罰金を納める最終日で、赤ん坊は病院を出るとすぐに父親の罰金を母が支払うためにマンハッタンに連れて行かれたのた。(その頃、私の銀行はNY市内にしかなかった。)

2009年11月9日月曜日

5. 空港からの電話。

私はファイスブックを使いこなしていないが、マイクが私のフレンドになってから、私も時々ファイスブックでみんなの近況をチェックしたりするようになった。グラムも写真なしで登録していた。

よく見ると、グラムがチャットにオンしていた。

ハイ。

ハイ。

入院していたと聞いたけれど、大丈夫?

大丈夫。思ったより早くアメリカに帰れそうだ。
けれど、お金がない。ジョージの金を盗もうか?

それは面白くない冗談。
こっちに戻っても、未支払いの税金や養育費で牢獄に入れられるだけだから、そっちにいた方がいいんじゃない。

払えるなら払いたい。それでもここに居るよりましだ。
ここでは暮らしていけない。仕事もないし、希望もない。最悪だ。

スカイプに繋げれば、もっと簡単にこれから話が出来るわよ。


どうやったらいい?

スカイプのサイトに行けば、分かるわ。

それじゃ。

簡単なチャットだった。
企みを感じさせるずる賢そうな彼の嫌な一面を見せている会話だった。

それから1週間後、スカイプを繋げたと言って来た。
私はスカイプで日本の友達といつでも話せる状態にしているので、これでグラムとも簡単に連絡出来、状況が把握出来るようになると思った。
これが7月7日のこと。

それから、スカイプをオンにして待ったが、彼がオンしていることはほとんどなかった。
イギリスに戻って一ヶ月,グラムもすこしは落ち着いて来て、仕事でも見つけたかと期待した。

私は母が死んでから毎年日本に帰っている。一回忌,納骨、3回忌、家の片付け、母が生きていた時より帰国しなければならないというのは悲しいことだ。冬にしなければならない3回忌がゼントの高校進学のこともあり帰れなかったので、この夏休みに3回忌をすることにしていた。7月26日から8月19日までの長期間の帰国である。

7月23日。
ケントの携帯が鳴る。
ケントは当然、I Dを見る。

”マム、ダッドから?”

なんで?

電話を取ったケントは不振そうに電話の話しを聞いている。

”マム、変な電話。ダッドを空港まで向かいに来いとこの人は言っている。”

何?誰?貸して。

電話をとって、こわごわ、

ハロー

”僕はコンチネンタル航空の添乗員のジョンというものですが、グラムを迎えに来ていただきたいのです。ターミナルCのxxxxxxまで。
申し訳ないのですが、彼の電話を調べさせていただいて、息子とあったので、お電話を差し上げているんですが。”

一体私はなんと対応していいのだろうか?何てことなのだ?どうしてグラムはニューアークに居るんだ?

分かりました。迎えにいきますが、そちらと連絡出来る電話番号を頂けますか?

”どのくらいで来られますが?”

急いでけば、30分ぐらいで。
と電話を切ってから、イギリスのジョージに電話した。

ジョージ,どうしてグラムがニューアークに居るのよ。どういうこと? 空港からケントのところに電話があったのよ。

”今日、グラムはうちを出た。奴は二度とうちの敷居をまたがせない。奴は悪魔だ。ひどいひどい人間だ。パムにもひどいことをした。パムは二度と彼を受け入れない。
グラムを引き取ってはいけない。君はケントを守らなければ行けない。勿論、君次第だが。”

君次第だと言っても、今うちに、空港から引き取ってくれと電話が。


”何度も言うが、彼はひどいひどい人間だ。”

グラムはお金がないからアメリカには帰れないと言っていたのに、どうしてアメリカにいるの?

”お金は俺がやった。けれど俺が追い出したのではない。あいつが帰ると言ったんだ。
グラムを迎えにいってはならない。君次第だが。”

この君次第という言葉が引っかかって、いい気がしなかった。
こんなにグラムに怒っているジョージを知らない。グラムのアル中癖は彼が一番しているはずなので、これほど怒っているとは、余程のことがあったのだ。
これで一応状況は把握できた。ジョージとの電話を切ってから、私は落ち着いて考えた。
そして、空港のジョンに電話した。

私達とグラムの関係を説明させていただきたいのですが、あなたがおかけになったグラムの息子は14歳で、私は彼と離婚して12年になります。もし自分が分からないほど酔っぱらっているようでしたら、息子のためにもここには引き取れないです。

”申し訳ありませんでした。ご事情も分かりませんでしたので。電話番号に息子さんとあったので電話させていただきました。既に成人している方だと思いました。”

グラムは電話が出来ないほど酔っぱらっているんですか?


”ええ、イギリスにはお兄さんのお葬式のために帰ったとかで、ずっと泣かれておりまして。”

そうですか。
彼は12年間、一緒にいたガールフレンドがいます。彼女の名前はメアリです。彼女に連絡して頂けないでしょうか?

”分かりました。大変申し訳ありませんでした。こちらでなんとかさせていただきます。”

と言って電話を切られた。

それから2時間後,私は心配して空港のジョンにもう一度電話を入れた。

どうなりましたか?


”1時間ほど前にタクシーでお友達のところに行かれました。
お電話を差し上げると,その方はグラムさんのことを良くご存知で、タクシーでうちによこしてくださいとのことでした。”

と丁寧に説明してくださった。
メアリのところではなくPという友達のところに行った。そこまでは分かった。

次の朝、電話が鳴った。
グラムだった。

ハイ

”フージ、NYに戻って来た。”(グラムは私のことを時々、フージと呼ぶ)

知っている。
グラム,覚えてないのね。昨日、空港からケントの携帯に電話があったのよ。 酔っぱらっている父親を迎えに来いって。

さすがに、覚えていないグラムにはショックだったか、すぐに返事をしない。

添乗員の名前はジョン、覚えてる?兄の葬式でイギリスに帰っていたって言って飲んでたの?

”確かに、ジョンという名前だった。父親の葬式って言ったと思ったんだが。
すまん。”
といって、電話を切ってしまった。

私はまたイギリスのジョージに電話した。

そちらで何があったかは私は知らないけれど、グラムは兄の葬式で帰っていたと言って酒を飲んだらしい。グラムが教えてうちに電話があったのではなく、添乗員が勝手にグラムの電話で見つけた電話癌号が、ケントの電話番号で、しかもその息子は既に成人していると思ったらしい。今、グラムから電話があったけれど空港でもことは全く覚えていないようだった。
と昨日のことを説明した。

切っても切れないあの2人の関係だけに、今回の出来事は悲しい。ジョージにこれ以上、グラムのことを悪く思って欲しくなかった。グラムはジョージを失くしたら、どこへ行くというのだ。一体、これから誰と話しをするのだ?

兄が死んだと言ってそこまで飲むほど、一体ジョージとの間に何があったのか?

グラントは四面楚歌の状態でしかも一文無しでNYに戻って来た。最愛のメアリもジョージもいない。その上、私達は三日後には日本に発ち、3週間帰ってこない。一体、グラムはどうするのだろうか?

ここで日本に帰ることをラッキーだと思うしかないわね。日本でゆっくりして来なさいよ。
とへレンの言葉。

4. イギリス.そして入院。

2,3日してジョージに電話をしてみた。
パムが電話に出た。

”悪夢のようだ。”

と言った。
グラムは全く、ジョージたちの意見に耳を貸さず、酒を飲んで、死ぬと言っているらしい。

私が心配したと通りの状況だった。
帰りたくない人間がイギリスでいい子にする訳がないのである。
犬だって無理矢理連れて行かれたところでいい子にする訳がない。

パムが

”どういうつもりでグラムのことが気になるの?"


と私に聞いた。

虫が騒ぐといいたいところだが、そんな答えを彼女が期待してるとも思えない。
彼女はどうして私がグラムに関わるのか分からないのだと思う。
関わるとロクでもないはめになるのに、どうして関わるのかと私に聞いているのである。
自分のダンナのジョージや2人の子供の家族のことだけでも大変なのに、グラムまで抱え込むのは迷惑な話なのである。
グラムのアル中の問題は彼がイギリスにいた時からなので、かれこれ30年以上の歴史があり、彼女自身の経験上もっとも関わりたくないことなのである。

ただ、ジョージはグラムにとって,兄以上の関係。親代わりだったジョージはグラムの人生の全てでもある。グラムはジョージなしでは生きていけないといっても過言でない。
けれど、パムにとってはとんだ厄介者なのだ。

基本的には12年前から私はメアリという人物が分からない。
彼女は立派な夫と地位を持ちながら、なぜグラムを必要としたのか?私には分からない。それは恋だったのか?12年も彼を自分の近くにおいて、ダンナとの離婚が決定した今、グラムを放りだすと言うのも分からない。

僕たちはずーっと一緒だと思った。離婚したら一緒に住めるようになるのだと思ってた。彼女には誰か居るらしい。僕はいらないのだ。イギリスに帰すのだ。
と私に話すグラムを気の毒だと思った。グラムは決してメアリのことを私の前で口にしなかった。おそらく、口にしたのはこの2,3ヶ月前位からだろう。

12年間、メアリはグラムと一緒に住むということをしなかった。
ダンナがいたからということもあるだろう。またお金があるから、彼に住むところをあてがうことができたのだ。
彼女にはコネチカットとミッドタウンのイーストサイドのマンションがあり、グラムはそのビルから一ブロック東にドアマン付きのビルにスタジオタイプだが、手頃な広さのアパートに住んでいた。このご時世であるから、このアパートが安い訳はない。
この2,3年前、高いからもうシティには住めないとコネチカットに移った。今度はメアリの本宅の近くだった。
私はケントのことで連絡を取らなければいけないので、グラムの居所を常に聞いたが、どこに居るのか分からなかったことも多々ある。メアリの連絡先を教えられなかった私は、彼のことを知る第3者を持たなかった。グラムからの連絡を待つ。これが12年間の私達の関係なのだ。
一体どんな生活をしているのか?彼の口から出る話しはまともに聞いたことがない。
嘘に決まっていると思えば、話しは右の耳から左の耳に抜けてしまう。
彼らは12年間,彼らの世界で生きた。
グラムとは、母の日,父の日、子供たちの誕生日、特にサンクスギビングのあたりにある彼の誕生日、クリスマス、このときだけの連絡すればいい関係だった。
ケントを含めた3人の子供たちはメアリのニューヨークのアパートやコネチカットの本宅に泊まっている。彼らの話しに寄ると、恐ろしく広い家で迷子になったとまで言っていた。
そして、不思議なことに誰もメアリのことを悪く言わなかった。

私はメアリのことをグラムとジョージのクイーンと呼んでいる。
クィーンは嫌がる56歳にもなる男を無理矢理にイギリスに帰すことが出来、そして、その兄、ジョージにその申し出を受け入れように命令もできるのだ。

ジョージとパムにもう一度頼んでみた。

メアリの連絡先を知らないか?


”向こうから連絡がくるだけで知らない。”

12年間、ジョージたちは決して私に彼女の連絡先を教えない。グラムも教えない。
それはクィーンの意思なのか?下部の考えなのか?私のことを危惧してなのか?

一週間ほどした頃、スコットランドのキャロルからからメールが来た。

ー私達がグラムの仕事をしなくちゃいけないとは残念なことだね。
ジョージとパムから連絡があって、昨日の朝、6時ごろ、グラムは救急車で病院に運ばれたらしい。
グラムは死ぬと言って酒を飲んでいるらしい。彼らにも生活があるので24時間付ききりで酒を飲まないように見張っている訳にも行かず、お手上げ状態らしい。
ジムは腰が痛くてここのところずーっと仕事を休んでいるし、私も乳癌の検査に行かなければならないし、ここのことは心配しないでね。再発もしないで元気にしているから。
とにかく今はイギリスには行けない状態なの。
ましてや、グラムを引き取ることなんて出来ない。
グラムには酒を止める気がないことは確かな様子ね。
何か分かったら、またメールするわね。
ラブ

スコットランド側の兄は、彼らの父が亡くなった時、19歳になっており、隣人で育ったたキャロルとは既に結婚していたらしい。
両親に育てられので、性格的なゆがみが余りなく、素直で楽しい性格だ。
この兄をグラムは長い間、嫌った。それがなぜなのかわからない。
グラムの50歳の誕生日のプレゼントでメアリはグラムの家族全員(ジョージ,パム、マイク,ビル、キャロル)をNYに招待した。
ジョージやマイクはこれが2度目のNYでうちに泊まったりしていたので、私達も彼らに対して緊張感もなく、楽しい家族の集いだった。
メアリは勿論、自分の家族と過ごしたのだろう。お金を払った彼女はここには居ない。
彼女が買ったというケーキがうちに来ていた。
この頃からグラムはビルに心を開く。ビルと交流するようになる。
この企画とお金を出したのはメアリだとぺらぺら私に喋ったのはビルとキャロルで、彼らは私にグラムとメアリのことを隠したりしない。
ジョージとパムは決してメアリのことに触れない。きっと、私が傷つくと思っているのだう。しかし、私は傷つかない。もう、終わったことなのだから。
だから、私はキャロルに連絡した。何か分かるかと思って、期待して。
私の目算は見事に当たった。

グラムが入院!

また、ジョージに電話しなくてはならないのである。
パムが電話に出ることが多かったが、パムは私とジョージと話して欲しいようであった。
私の問題はジョージと話しても、勿論パムと話をしても同じなのだが、彼らのランカスターなまりは強くて、50%ぐらいしか言っていることが分からないのである。
彼らにしてもに日本語なまりの英語は難しいと思う。
私達は勘で会話をしているのである。

パムの説明では、

”死ぬと言っているのは口だけ。あの人が死ぬ訳ないわ。
自分で救急車を呼んで入院したんですもの。私達もまだ病院に行っていなし、ジョージが今日行ってみると言っているから、明日にはもう少し詳しいことがわかると思うわ。”

パムはグラムが居なくなって、ほっとして休養中、病院に行く気にもならないという感じだった。ジョージがなんとかするといった感じの返事だった。

一応、入院の理由は分かったので、やや安心。

私はこういったことをメールでへレンに報告する日々が続いた。

12年前にタイムスリップ
私は彼が酒を飲むと自殺意識で恐怖感におびえるのを知っている。私が追い出した後、誰かのアパートを間借りしていて、そこも出なくてはならなくなったとかで、夜中に凄く酔っぱらって、今から死ぬという電話して来た。ケントを友達のところに預けて、行ったこともない地域に行って、ふらふらと歩いているグラムを見つけて拾って、救急病院に連れて行ったことがある。どうしても病院に入りたがらないので、水のボトルを沢山買って飲ましながら、酒が冷めるまでつきあったことがある。
話しは戻る。

彼の恐怖感は自分が自殺すると思うところにある。それは父親がそうやって死んでしまったことにある。しかし、彼には自殺願望がないことも知っている。ただ、こういった精神分裂症が何らかの形で別のポケットに入ったら、彼の父親のように自殺をしてしまうんではないだろうかという何%かの可能性を感じ不安になる。
グラムのアル中は精神病である。

3. かかわるな。

どうなった?
とメールを残したが返事はなかった。
グラムを引き取らなかった私にはもう用がないのか、彼はもう連絡してこなかった。

イギリスのジョージに電話するしかその後を知る方法はないようだが、グラムを迎えたジョージのところにすぐに電話を入れるのは?と思い、アメリカ来る度にうちに来ていて付き合いのあるジョージの息子(ケントの従兄弟)のマイク(40)のファイスブックに、
そちらにグラムが行ったみたいだが、どうして居る?
とメッセージを残したが、返事はない。
グラムのことで私とコンタクトを取る気はないらしい。

ビルとキャロル、(スコットランドに居るグラムの一番上の兄とその妻)がこの夏にアメリカに遊びに来た時、グラムと一緒にここに顔を出した。その時。メールアドレスを交換したので、キャロルに何か分かったらメールをくれるようにとメールしたが、ここからもすぐには返事がなかった。

もう一件,グラムのイギリス行きを連絡するところがあった。
グラムの子供を2人持っているグラムの前の奥さん,へレン。

私が警察を呼んでグラムを追い出したのが12月17日で、グラムの子供たちから届いたグラムへのクリスマスプレゼントを渡せないとへレンに電話したのが、私達が親友となったきっかけである。へレンはグラムから聞いていたお高くとまってそうな金持ちのお嬢さんの雰囲気は全くなく、素直でオープンでフレンドリーな性格だった。
へレンはグラムとの離婚に至った話しを延々としてくれた。彼女のグラムのアル中に苦しんだ7年間の話しは私の立場を楽にした。

彼女の子供たちはケントが産まれるときから、ケントを自分たちの弟として受け入れた。住んでいるところが遠いので一緒に暮らして来た訳ではないが、家族であるという意識はちゃんとある。ケントのアメリカ名スコットはその時8歳だったクレークがつけてくれた。
クレークはグラムの父親、一番上の兄の名前,ウイリアムをミドルネームに貰い、ケントはもう少しでグラムの最良の友,すぐ上の兄のジョージをミドルネームにするところだったが、私は父の遺言で子供を産むことを決めたのだから、彼の一字を息子に渡したかった。
”人”という字である。考えて考えて見つけた名前は、英語で育つ子なので書き易い字、呼び易い音の名前,”兼人”と名付けることになった。
グラントと暮らしていたときは一年に一度は必ず彼の子供に会いに行っていた。その頃は、彼らはシカゴに住んでいた。その後、へレンは再婚し、ノースキャロライナに豪邸を購入して移住した。

彼女に連絡しない訳にはいけないのではないだろうか?
何もしていない父とはいえ、クレークとジュリアの父なのだから。

何より私はグラムのことを話す話し相手がほしかった。
へレンはグラムのことに関しては私の最良の話し相手だ。

彼女の子供たちはグラムなしで育ってしまった。
グラムはこの12年のメアリとの生活の間、わざわざ彼らに会いに行くということもなかった。彼らがNYの父親に会いに来た。その時も彼らは私のところに滞在した。一泊だけ父親のところに泊まっただけである。それも12年の間に何回あったか?
私とケントは13歳のクレークのバーメッツバに行ったが、グラムは行かなかった。
私にはなぜグラムが行けなかった理由は分かるが、13歳のクレークには来なかった父親の気持ちなど分からなかったと思う。

グラムの人生には多くのラッキーがあると私は思う。
数多くのラッキーの中で、最もラッキーなことはケントも含めて、彼の子供たちがグラムからの養育費なしに人並み以上の生活をして育っていることである。特にへレンの父親は億万長者でへレンもこの父が居なければやってこれなかったと言っている。ほとんどの学費はヘレンの父が出したらしい。
再婚したDもお金持ちだったので,豪邸に住み、生活費の少しを彼女は稼げばよかった。ただ、10年暮らしたDもアル中が理由で離婚となったというのは悲しい話しだった。しかし、2人の子供たちにはいい義父だったようである。今も相談相手をしているようである。
現在はイギリス人の彼氏、Jと縁があって、幸せな暮らしをしている。

へレンの母としての立場の意見は常に理解出来た。彼女は2人の子供にグラムという父親の存在を意識させながら育てたところは、偉いと思う。
けれど、もう子供たちは18と22、もう子供でないので、父親としてのグラムの立場を要求するのも諦めたようなところは昔よりある。

フーディ、グラムのことには関わない方がいいわよ。放っておいた方がいいわよ。自分の人生が一番大事。

かかわらない方がよいというアドバイスは有り難いが、
グラムは何かがあればここにメールや電話してくるのである。
そのメールや電話をみんなは無視しろというのか?

無視をしてグラムに何かがあれば、後悔するのは私なのであって、関わるなとアドバイスしてくれているみんなでない。

帰りたくない。私のところに泊めてくれといわれ,ノーと答え、
そして、帰されてしまったグラムがイギリスでどうして居るか気にならない訳がない。

2009年11月7日土曜日

2. メール,そして電話

起きるとすぐにコンピューターでメールのチェック、これが日課である。
早速、彼のメールが入った。夕べの私の言葉に対してのメールで、

ーありがとう。ナイスな言葉だ。

必要ならいつでも連絡ちょうだい。

と返した。

一時間後、

ー2,3日、そこのカウチに寝させてくれないか?
とメール。

うちに来たいなら、メアリと
話しをさせてくれない? あなたたちの関係が私の生活に影響するなら、もう少し状況を理解したいから。
と返した。

 メアリとは彼の彼女で、私達が別れることになった原因の80%。後の20%は酒。
12年前、彼女は某有名雑誌の社長をしていた。2年以上も無職だったうちのダンナはラッキーにも50%でっち上げの履歴書なのに、マネージメント ダイレクターという非常によいポジションでクライスラービルにある広告代理店に就職を決め、そこに1年足らずいた後、NY、東27丁目にある某広告代理店に昇進して勤めることが出来,人並み以上の月給にありついたいた。某有名雑誌の社長、メアリが彼の産まれたスコットランドの隣町出身と分かり、それをきっかけにして手紙を出したのだ。
手紙を出すというところまでは、嬉しそうに私に話していて、この企画を社長に話したら凄い乗り気で、僕は成功するのだなどと言っていた。
メアリは彼の手紙を読み、なんとグラムとランチの約束をした。
そのランチの日, どうだったの?と聞いたら、ブスだったと答えたきり、グラムはメアリのことには触れなかった。
そして、それから彼はまた酒を必要以上に飲みだした。
メアリとの関係は明らかだったが、仕事の付き合いという名目だった。確かに、仕事を絡めていたのは知っている。
メアリは余りにも有名すぎる雑誌社の社長で、本人もそう思っているから、うちに夜の9時頃、
xxxxxxxマガジンの社長の
メアリだがグラムはどこ?
という電話があったことがある。
メアリとの関係が深くなればなるほど、そして、私がグラムを私の家から警察を読んで追い出すまでの半年間、グラムの酒の量は恐ろしく増えていった。
そして、彼の無断外泊、彼の収入は彼だけのもの、暴言,脅しは増えていく。
メアリのアパートの電話番号をグラムのかけた電話の経歴から見つけて知っていた私は、ケントが40度の熱を出して朝の4時まで泣き続けた夜中に彼女のところに電話をしたことがある。
電話に出たメアリにグラムはいるか?と聞くと
イエス
と言って、
グラムに電話を渡した。
この電話のバックグランドサウンドは,2歳児の泣き声。
グラムは夜中に迷惑と私に腹を立てて電話を切った。

それ以来、私はメアリと話しをしたことがない。
グラムの兄のジョージに何度頼んでも、彼女の連絡先は教えてもらえなかった。
かかわらない方がいい。自分の生活を守ることが肝心。触らぬ神に祟りなし。ということだった。

そうだ。イギリスのジョージに電話して、事情を聞いてみよう。
私は飽和状態で、誰か話し相手になってくれる人が必要だった。
勿論、この状態では、私の話し相手はジョージしか居ないのである。

ジョージ、グラムがメアリにイギリスに追い返される、帰りたくないからうちに泊めてくれと言っている.一体どういうことなの?

”おお、そんなことをしたらいけない。君はケントを守る責任がある、何があってもグラムの言うことなど聞いてはならない。グラムは君を利用しているだけだから。僕はメアリから連絡があって、グラムを送り返すから空港に迎えに行って欲しいといわれ、詳しいことの電話を待っているところだ。酒を飲んで、メアリにひどいことをし、メアリも努力したのだから、こうなったのも仕方がない。とにかく、僕に任せてくれ.僕がなんとかする。イギリスに帰してくれ。””

分かった。これからはあなたとパムが大変になるね。


これで、一応、イギリスの状態は理解出来た。

ー迎えに来てくれ。
とグラムからまたメールが入った。11時。

電話して。
と返した。

電話がかかる。

”迎えに来てくれるか?”

メールと同じことを言った。

メアリ
と話しをさせてくれる?

そうすれば、うちに来れると土壇場のグラムは単純にそう思ったに違いない。
メアリにフーディと言って電話を渡した。

メアリは“イエス”と言った。

電話に出てくれてありがとう。あなたも知っているように、私達は彼なしで長いこと暮らして来て、はい、どうぞと受け入れれる生活を私達はしていないの。私も母が死んでから、仕事先を辞めたりして、いろいろ大変で、まだ普通の生活にはもどっていないし。ケントも居るし、学校もあるし。グラムはフーディが迎え来てくれると言っているかもしれないけれど、グラムがあなたに言っていることは本当ではないから、そのまま受けとらないで欲しいのよ。

”あなたの言うことはよく分かるわ。心配しなくていいわ。車を呼んで空港までいかせるから。そう、グラムに言ったの?


グラムが横に居るので、彼女は話し辛い感じだった。

まだ。言った方がいいわね。


”そうね。

と言って、さっさと電話を変わってしまった。

グラム,私、ジョージとも話したの。ジョージが待っているって言ってたわ。
だから、イギリスに戻った方がいいのかも。それから、また、みんなでどうすればいいか相談しょう?

と私の話しも終わらないうちに、グラムは

”それじゃ”

と電話を切ってしまった。

メアリの電話番号を聞くのを忘れたとまた後悔。
もう2度と話せないのか?

この12年間の鍵を握っているのはメアリなのに、話しも聞けない。
そして、私はこんな電話をいつも一方的に受けとるだけで、何も本当のことは分からないのだ。馬鹿げた話しだと思った。

マンチェスター行きのフライトを調べた。グラムに会おうと思えば5時に空港に行けばよかった。
その時間まで考えた。ケントにも聞いてみた。
勿論、彼は行きたくないと言った。

私は虫が騒ぐのである。これが最後だという気がしてならない。
何度も言うが、どうういう意味での最後か分からないのだが最後なのだ。

グラムの酒のこと。鬱病のこと。この原因は彼の幼年から始まる。母は彼が3歳のときに、病気で亡くなり、父は母の後追い自殺で7歳のときに亡くなっている。父もアル中で彼とそっくりなのである。酒を飲むと自分も自殺すると思っている。それなのに飲む。飲み続ける。
5,6歳上のメアリを失うということは彼の母を亡くすことに近い。
今回ばかりは、グラムのことをどうしてもふーんと聞き流せないのであった。