2009年12月22日火曜日
20. 最後の日
”だから、言ったでしょ.何があるか分からないから、何事も前もってしておかなければならいって。問題はグラムを残して出て行けるかどうかってことね。”
ケントにとってはこの父親事はただの迷惑でしかなかった。
とにかく、私はくたくただった。
シャワーを浴びて、眠りたかった。
4時か5時頃、物音で目が覚めて台所に行くと、暗がりにグラムが立っていた。
私は寝ぼけいて、すっかりグラムが地下にいることを忘れていたので、びくっとした。
”お腹がすいたんで、玉子を食べた。構わないね。”
ええ.構わないわ。大丈夫?”
グラムは地下に戻って行った。
次の日の朝、いつものように私はコーヒーを入れた。
もちろん、グラムにも。
それからブルースに電話した。
ブルースはこういった。
"キャンセルがあったから、今日中にベットを用意します。明日の朝連れて来なさい。
くれぐれも酒は飲ませないように。"
”サンキュー、サンキュー、じゃ、明日の朝に会いましょう。”
ブルースは
ははっと笑った。
”グラム、明日の朝に来なさいって。よかったわね。”
グラムは何も言わなかった。
それから、私は彼のカバンを開けて洗う物と洗わなくていい物の選り分けた。
昨日見つけた甚平を渡して、シャワーをしてこれに着替えてほしいと頼んだ。
それから、カバンのそこから小銭を見つけたけれど、小銭もお金なのよ。6ドルもあったわよ。とその小銭を見せた。
"着替える前に外を少し散歩したい。ダンキンドーナツまで行ってコーヒーを買ってくる。"
と言って出て行ってしまった。
”ケント,一緒に散歩に行くべきだったわよ。”
"この小さな町で僕があんなホームレスと歩いていたら、皆が変な噂をするに決まっている。誰と聞かれて、なんと返事をするんだい。ダットとは言えないだろ。”
確かにケントは町でも有名だし、この町は小さいので噂にはすぐなるかもしれない。彼は正しい。
小銭がテーブルから消えていた。
コーヒー?コーヒーは今飲んだじゃないか?!
私達は顔を見合わせて、
”オー、シット。”と叫んでしまった。
”酒を買いに行ったのよ。急いで酒屋まで行って、待機して。どこの酒屋か分かる?”
”知っている。いつも行く酒屋。”
ケントはスクターで酒屋まで走った。私は車で探すことにした。どの道を選んだかわからなかったからだ。けれど、簡単にグラムを見つけた。見つからないように遠くで止まったつもりだったが、グラムが道を曲がる際、こちらをちらっと見た気がした。それからもゆっくりゆっくり走って後をつけた。
町のメインの交差点に彼が着いたとき、彼が右に行くか左に行くかで、コーヒーか酒か分かる。私はこのまま行くと彼を追い越してしまうので、アパート用の駐車場に車を入れた。
その駐車場からはグラムが見えなくなるので、ケントに電話して彼をそこから尾行してもらおうと思った。
”マム,ダッドは今、右に曲がった。”
私は視線をあげると、グラムが私の車を覗いていた。
やはりあの角を曲がるとき、グラムは私の車を見たのだ。
後をつけているのをやっぱり知っていたのだ。しかも、この駐車場に入るのも見ていたのだ。
”ケント,尾行は完全に失敗。あなたのおとうさんは今、私の車を覗いている。”
私は窓を開けて苦笑いをした。
”コーヒーはもういい。帰ろう。”
とグラムが言った。
”ケント、そこで待ていて、今ピックアップするわ。”
ケントは酒屋の前にいた。
3人乗り込んだ車の中はいろんな意味での気まずさでシーンとしていた。
家に着くと横になりたいとグラムは言った。
その前に洗濯しなくてはいけないから、この甚平を着てくれと手渡した。今回は文句も言わずに着替えた。外人が着る甚平はちょっと可笑しかったが、それなりでもあった。
ソファに横になったので、布団もかけてやった。
私達はケントの靴を買いに出かけることにした。
出かける前に、あっと思たことがあった。
フライパンを入れてあるトビラに焼酎を入れてあったことを思い出した。出かける前に調べると、焼酎はそこにあったし、減っているようでもなかった。
日本語で書いてあるからお酒だと思わなかったのかもしれないと、ラッキーに思い、それを私のクロゼットの奥に隠した。
グラムはテレビはつけていたが寝ているようだった。
しかも、甚平などを着せられているから、出かけるはずもないだろうと思った。
車の中でケントに隠し忘れていた焼酎のことを話した。
呆れた顔で私を見た。
”ダッドはシャワーを浴びろというのに浴びないし、どこで何をしていたか知らないが、汚らしい。家に入れてもらったくせに、マムの言うことを聞かないし、夕べなんて、あんなにおいしそうな晩ご飯を作ってもらったくせに、有り難いという態度すらない。
今度、失礼なことを言ったりしたら、俺は一言、言ってやるつもりだ。”
と、かなり真剣に怒っている。
本当に一言,言ってくれればいいが。
うちの息子も影では強い。
”お昼ご飯はどうしようか? 何か、ダッドに買って行く?”
”何も買わなくていいよ。また食べないかもしれないし。”
ケントの言う通りだった。買って帰っても感謝されないだろうと思った。
靴を買った後、ファマーズマーケットで果物やブレッドを買ったりして、家に戻った。
グラムはソファで寝ていた。
ケントはソファを取られて不機嫌だった。たった一日の辛抱、明日の朝にはリハビリに入るんだからと言い聞かせなければならなかった。
”ケントが言ったんだけど、シャワーを浴びて欲しいのよ。どこで寝ていたか知らないけれど、外の汚い物をうちに入れられたら困るって。まぁ、もう遅いけれど。ケントの言う通りだと思うの。”
と言ってみた。
”そうだな。悪かった。シャワーを浴びる。”
洗濯も終わっていたので、彼が着る服もあった。
グラムも何も食べないでいる訳にもいかないだろう。
何を食べさせればいいのだろう?
母の日だったと思うのだが、グラムがラザニアを持って来て祝ってくれた。彼はいつものことだが疲れていて、食べ終わるとそそくさと帰って行くというのがお決まりだったが、なぜかゆっくりしていて、3人で映画を見た。珍しい。その上、今日は運転して帰るのが辛いほど疲れているんで、ソファで寝てもいいかなと聞いた。
酒を飲んでいなかったので、泊まっても構わないと言った。
今から考えると、あの頃にはすでにメアリとの仲は終わっていて、かなり深刻な状態だったのかもしれない。
今住んでいるところを追い出されるとも言っていた。
こんな話しはこの12年の間に多々あったので、私もいい加減に聞いていたのだと思う。
このときにうどんを作ってやったら、おいしいと言って汁まで全部飲んだ。
この時のことを覚えているので、うどんなら食べるかもしれないと思った。
シャワーを浴びて小奇麗になったグラムにうどんを食べるかと聞いたら、食べると言った。
うどんを前にして、何かを考えていて、なかなか手を付けない。
ようやく箸をつけた。どうやらお腹も空いていたらしく、どんどん食べている。
今回も奇麗に汁まで飲んだ.静かに箸を置いた。そして祈るかのようにしばらく目を閉じた。
神妙なグラントを始めて見た。まるで、死刑囚が階段を上っているような感じだった。
”サンクス、フージ。とても、おいしかった。”
お箸を揃えて静かに置いた。まるで、日本人のようだった。
この時の彼のサンクスは重みがあった。本当に感謝されていると思った。
気になるのは友達のところにあるグラムの荷物のことだった。
Pというグラムの友達のこと。一体誰なのか知らないが、私がこの人にあって荷物を引き取りに行かなければならないらしい。
Pが今日カリフォルニアから帰って来ると行っていたので、ご飯を食べた後にでも行って荷物を取って来れないかと、私は何度も聞いた。
”Pに連絡しているけれど、返事がない。まだ帰って来てないようだ。
どうやら、フージ,君にやってもらわなくてはならないようだ。”
”全部が揃っているかどうかは分からないわよ。いつか自分で確認して、直接聞いてみることね。”
この晩はグラムがソファで寝ることを許した。
ありがとうと言った。
明日はケントの高校の初登校でもある。
そして、グラムのニューライフの始まりの日でもある。
そして、今日は最後の日なのである。
朝、ケントが出かけるとき、
”帰って来たらダッドはもういないから、挨拶して行きなさい。”
というと、
”ダッド、気をつけて。グッドラック。”
”サン、ちゃんと勉強するんだよ。”
とグラムは言った。
私が車でケントを学校に送って行っている間に、グラムはちゃんとシャワーを浴び、髭も剃り
、ここに連れて来た時とは全くの別人。どこかいいところに行く訳でもないのに、彼はスキっとしたいい男前になっていた。
トーストと目玉焼きを作った。
もちろん、コーヒーと。
ダンキンドーナツのコーヒーが飲みたいなどとは言わなかった。
私の作った物に文句を言わずに食べ、感謝しているというのも別人のようである。
ブルースから電話があった。
本当に来るのかどうかの確認の電話だった。
”1時間以内には連れて行けると思うわ。会えるのを楽しみにしているわ。”
と言うとまたははと笑った。
”今から行くところはここから20分よ。本当にグラムあなたはラッキーだわ。”
”もっと遠いのかと思った。”
すぐ近くよ。NJとの境目よ。用意はできているみたいだし、もう行く?
この時のグラムのスマイルはやや不安に満ちていたが、肯定的なスマイルでもあった。
2009年12月21日月曜日
19. 彼のソファ
しかし、彼の昔のアパートの前に着いたのに彼はいない。
”ハロー。どこにいるの?”
もう着いたのか。分かった、外に出る。
昔はここからバーバリーのダッフルコートを来て出てきた。
この夜は私が買って持っていったグレーのジャージーの上下で、私の黒の革のボストンバックを持って、とかされてない髪、剃られてない髭、その上足を引きずって出てきた。
救急車で運ばれた時の打ち身はまだ完治していないようだった。
もう彼は48丁目の贅沢なマンションの住人ではないのだ。全くの別人だった。
”ドアマンが入れてくれたんだ。”
”よかったわね。さほど待たなかったでしょ。”
”あぁ。来てくれてありがとう。心から感謝する。”
私はしばらく言葉がなかった。感謝されるのはうれしいが、この事態がいったいどう進展していくのか不安ではあった。
”今晩は地下のソファに寝てほしいの。私の家は小さいじゃない、だから、私たちはこの事態の準備ができないし、いつもの生活をギブアップできないし。”
”もちろん、それで構わない。十分助かる。”
”ブルースと話したけれど、ベットがないから入れないそうよ。1週間ぐらいかかるかもしれないけれど、キャンセルがあるかもしれないともいっているから、明日の朝、また電話して聞いてみる。グラム、お酒を飲んでいるとそこに入れないのよ。”
”分かっている。飲んでいない。”
飲んでいて飲んでいないと言い続けて30年なのだ。
悲しいかな。飲んでいるのである。
急いで出て来たので、冷蔵庫にあるビールを隠すのを忘れたと思った。
”今後の知識として知っておいて欲しいんだけれど、公園に行く前に、ゴミ箱をあさって新聞紙、デリなどで段ボールを確保して、持っているだけの服を重ね着したら、寒さに対応出来るわ。これはホームレスの常識よ。”
たいした会話も交わさないうちに家に着いてしまった。
”ハイ、サン。”といつものように言って家に入って来た父親をちらっと見ただけで、何事もなかったかのようにコンピューターに向かっているゼント。
こんな惨めな父親を見なくてはいけない息子も気の毒だ。
”グラム,何も食べていないんでしょ。何か作るわ。”
ダイニングの椅子に座った。
取りあえず、暖かいお茶を渡した。
ありがとうと言ったが飲むようにも思われなかった。
私はこの人と4年近く暮らしたが、この人の好きな物とか、何が喜ぶのかわからない。私の料理の中では手巻き寿司だけは文句を言わず、喜んで食べた。その他,一体何が好きだったろうか?私が与える物は全て不満そうだったから、仕事のない暇なグラムは勝手に自分で作って食べていた。だから、一体何を食べさせればいいのか分からなかった。
冷凍庫にミートボールがあった。これなら食べるだろうと思って作った。
その料理中にグラムに見つからないようにビールを隠した。
出来上がったミートボールをダイニングテーブルに置いた。
グラムはすぐに手を付けず、それを眺めていた。
電話が鳴った。へレンからだった。
電話を取って地下に行った。
”一体どうなったの?”
”ここにいるわよ。”
”ええ〜。”
”公園に寝ると言ったけれど寒くて寝れないと電話してきたの。連れて帰って来たのよ。”
”グラムはノースキャロライナに住んでなくてラッキーね。私なら絶対に迎えにいかないわ。あくまでも公園で寝てもらうわ。”
”ラッセル・E・バレイズデールが一応彼を受け入れているのよ。ベットの空きがないないの。一週間ぐらいかかると云われているけれど、何とかもっと早くに引き取ってもらえるように交渉するわ。”
”でも、危険じゃない?グラム。”
”今、彼は私を失うと本当に誰の力も借りれなくなるから、私には従順だわ。”
”本当に大丈夫?”
”大丈夫。メールするわ。”
戻って来ても戻って来ても、彼のミートボールは減っていなかった。
”食べたくなければ、食べなくていいのよ。”
”食べれない。”
”できればシャワーを浴びて欲しいんだけれど。”
”疲れているんだ。シャワーは今、浴びたくない。少し休ましてくれないか?”
”じゃ、下のソファーで寝れるようにしてくるわ。”
私は地下にシーツや掛け布団を運んだ。
地下で作品を創り始めていたので、地下に彼をおくと仕事ができなくなるのも少し困った。
明後日はケントの学校が始まる。しかも、彼は高校に進学した始めての日。日本から戻った後,彼はアイスホッケーのキャンプやサッカーの練習、そしてこの父親の騒動で何も用意ができていない。
さすがにスケートボードで穴だらけの靴で高校生としての初日は恥ずかしいというのでそれもそうだなと納得して、明日はどうしても新しい靴をホーボーケンまで買いに行ってやることにしたが、問題はグラムをどうするかである。この状態では仕事はどちらにしてもできないだろうと思った。
”今、着ている服とか、汚れている服は明日全部洗うわ。”
その間に着れる服がうちにはあるだろうか?
私の男物の甚平を見つけた。グラムはかなり痩せてしまっているので着れるかもしれないと思った。
”ここにいる間に、ラッセル・E・バレイズデールに入る前に、Pのところに2人で行って荷物を取ってこれるといいわね。”
”Pはまだカリフォルニアで帰って来ていない。連絡してみる。
君の友達はなんて言っているんだい?”
”誰、私の友達って?”
”ブルースとかいう。”
”あぁ.明日の朝またかけてくれって。ベットが空くかの知れないしって。”
ついにブルースは私の友達になってしまっている。
もしかしたら、自分が彼に電話をかけたことも覚えていないのかもしれないなと思った。
普通の人と普通に話しをしていると思ってはいけないのだ。
メールが届いた。クレーグからだった。
— 本当は電話をしたいけれど、そこに僕の父がいるのを知っているので父が万が一暴力をふるったりするといけないのでメールにすることにした。
このところ、何度か父からメールを貰っている。そのメールで思うのだけれど、父は非常に不安定な状態のようで、特に彼の身体がアルコールを要求している状態に思われる。アルコールが切れると身体のバランスを崩して暴れるかもしれない。
どうか、直ちに父を家から追い出して欲しい。人ごみ、モールとか、消防署,警察、どこかそういった目撃者がいて,父が暴力に走れないところに父を置いて来て欲しい。どうか家に置かないで欲しい。父のことを心配して面倒を見ようとしている気持ちは分かるが、彼はかなり危険な状態だから心配でならない。
僕の父を2人の人生から完全に剥奪して欲しい。
僕は決して父にはもう近づきたくない。父がどんな状況に陥ろうとそれは彼の人生で僕は関係ない。特にフーディには全く責任のないことなんだ。関わらないで欲しい。
フーディとケントは僕にとって大事な家族だが、父はもう僕にとってはただの危険な男でしかない。お願いだから、家から追い出してほしい。
ラブ、クレーク
ジョージと全く同じで、クレーグにとってグラムは危険人物以外の何者でもないようだ。
それにしても、なんて悲しい話しなんだろう。息子が父親を見捨ててくれと私に頼むなんて。
12年前にこの危険人物を警察を呼んで追い出した私が、こうして迎えに行って連れて来たのだ。
私がその追い出した危険人物に優しくするには、3つのはっきりとした理由がある。
1)私のドアをたたいて,助けを乞う者に、それが誰であっても必要性をかんじたらNOと、私は言えない。
2)グラムは私にしたことを3年前に謝っている。それからは私に対して失礼な態度はほとんどなく、父親としてなんとかしたいという気持ちは伺える。
3)目の前にリハビリの施設に入れれるチャンスがぶら下がっている。
ここまで頑張ってブルースにこちらの事情を説明して、ついに受け入れますと言ってくれたのだ。本人もついにそこに行く気になっているのだ。12年かかったその日が目の前にあるのだ。これを見逃す訳にはいかない。
私がここで彼を見張って連れて行かなくては誰がするのだ。グラムに逃げてもらっては困るのだ。
そしてこれらの要素がグラムのミラクルを産むかもしれないと期待するのである。
地下にあるソファは彼がシカゴから持って来たソファだった。グラムを追い出してから私はガレージセールをして彼が使っていた物のほとんどは売ったり捨てたりした。
物で嫌な思い出を引きずりたくなかった。それなのにこのソファはなぜか捨てずに地下に置いた。この日のためだったのだろうか?
グラムも皮肉だなぁと言った。
そうね。きっとよく寝れるわよ。
2009年12月15日火曜日
18. 月曜日。
”Pに電話したか?”
とグラムは話し始めたが、
”今、市内を運転中なのよ。車を停めてから電話し直すわ。”
というと、
”そうだな,気をつけないといけない。後で電話してくれればいい。”
と優しく言った。
車を駐車場に入れた後、仕事先に行くまでの間に電話をしたが、ストレートに彼のボイスメールに繋がった。
今から打ち合わせだから話しはできないとメッセージを残した。
電話はそれからなかった。
打ち合わせが終わった後、YMCAまで行ってみようかなとちらっと思った。
でも,関わらずに済むなら関わらない方がいいのだ。
みんなが言うように、自ら不幸を招く必要はないのだ。
電話がグラムから電話がかからなかったので、帰ることにした。
すると、家に向かっている途中に電話があった。
”今どこにいる?”
”家に向かって走っているわ。”
”おぉ。バッテリーがなくてかけれなかったんだ。
どうやら、行くところがないようなんだ。
連れて帰って欲しかった。”
と言った。
”YMCAにはもう居れないの?”
”お金がもうないんだ。”
”ラッスル E バレイズデールに電話してみた?”
”いいや。”
”ケントのアイスホッケーの練習の後、親たちのミーティングがあるし、迎えにはいけないわ。
どこにいるの?
”56丁目あたりかな?どこにいるのかも分からない。”
と言った後,彼はうなり声をあげた。
オー・マイ・ゴット。私は静かに目を閉じた。心が痛んだ。
気が狂う寸前といううなり声だった。彼は56丁目のどこかのストリートでうなっているのである。
電話をどこかで充電しないと切れてしまうと言った後,ぷつっとすぐに切れてしまった。
私はあの声を一生忘れないと思う。凄く怖かった。
私は彼が病院を出た後、クライシスセンターに行き、その後に行くはずのラッスル E バレイズデールに電話してみた。
電話に出たブルースはこう私に説明した。
”本人に電話をここに掛けさせなさい。そうでないと受け付けられない。病院からのdetoxの証明も必要なので,詳しいことを本人から聞かないといけないから,彼にかけるようにいいなさい。”
その後にまたグラムは電話して来た。これはラッキーだった。
”ラッスル E バレイズデールは本人でないと受付出来ないと言っているわ。
メールで電話番号を送るわ。”
と言った。
電話が充電出来ないままでいるらしく,またすぐに切れた。
そしてまたかかった。
”君のくれた電話番号は間違っている,かからない。”
というのである。
掛けようとしていることは伺える。もう一息である。
”今,そこに電話をかけて喋ったところだから,かかるはず。 ブルースという人にかけて欲しいのよ。”
電話がかかる度に,私は同じことを繰り返した。
こんな細切れの電話の会話を数度か繰り返したと思う。
もし,ここに行けなければどうするのだろう?
へレンに電話した。メディカルスチューデントのクレークがヘルプ出来ないのだろうかと?
ボイスメールに残した。
メアリにダンカンという友達の収容所はどうなっているのか聞いてみようと電話したが、またボイスメールに繋がった。
1,2時間後にメアリが電話して来たとき,彼女はこういった。
”ラッスル E バレイズデールがYMCAにいるグラムを車でピックアップすることになっている。確か,迎えにいくのはブルースという名だった。”
という。
私はまた、ブルースに電話した。
グラムは電話をしたようだった。
”本人から電話がありました。それから病院に連絡して裏書きを取ったところ、detoxは終えていると云うことなので、一応,うちで引き取れると云う許可は出ました。”
”サンクスゴッド。”
”ただ,今ベットの空きがないので、しばらくYMCAに滞在して空きを待ってもらわないといけないのです。酒の飲まないようにしていただかなくてはここには入れませんよ。”
と念を押された。
”しばらくってどのくらいかかるんでしょうか?”
”1週間くらいかな?”
”そんなにかかるんですか?もっと早くならないのでしょうか?”
酒を飲んでおかしくなっているとは言えなかった。飲んでないと嘘をつかなくてはならなかった。けれど、かなり悪い状態なので早くそこに連れて行きたいと私の立場も含めて、念を押した。
それからしばらくグラムから電話はなく、アイスホッケーのミーティングが終わるまで電話は鳴らなかった。しかし、まるでこちらの状況を把握しているかのように、その部屋を出た瞬間に電話は鳴った。
今、YMCAのカウンターにいる。支払いができない。君のクレジットカードの番号を彼女に言ってくれ。
というのである。私はできるだけまわりに人がいないところまで行き、
”グラム,何を言っているの?どこの誰だか分からない人にクレジット番号なんか渡せないわ。”
と言った。
”分かった.他に聞いてみる。”
と怒って電話を切ってしまった。
こんな突然の電話で,酔っぱらいにクレジットカードの番号を教える馬鹿もいまい。
YMCAに滞在出来なくなった今、一体、ブルースはどこから彼を拾うのか?
家に帰って私はすぐにブルースに電話した。
”お金がなくなってYMCAを追い出されたみたいなんですが,どこに彼は行けばいいんでしょう?”
ブルースはクライシスセンターのことを私に説明してそこに電話するように言った。
ラファイエットのクライシスセンターは、グラントが病院を出た後に行って、ひどいところだと言って出て来てしまい、YMCAに入ったことを説明した。
それならハーレムのクライシスセンターの電話番号を教えましょう。勿論,素敵なところではないですけれど悪いところではありません。こことクライシスセンターは連携しているので,ベットが空き次第、こちらから車を出して迎えに行きます。
と言ってくれた。
グラムはひっきりなしに電話をして来た。この状態においては、こうしてグラムが電話して来ることは有り難かった。
YMCAのお金は友達が払ってくれたと言った。そんな友達がいるのだ?とクエッションマークの私。
ブルースの紹介してくれたクライシスセンターのことを話した。
思った通り,クライシスセンターと言っただけで拒否反応。
”あそこはだめだと言っただろ。ひどいところなんだ。”
と怒ってしまった。
”ここは違う場所なのよ。ハーレム。”
個人的に私の意見だが,ラファイエットよりハレームの方が聞こえが悪いが、この際,ハレームはいいところだと説明するしか方法がなかった。
”電話してみて?番号はメールで送る。”
しかし、かけるとは思えなかったので,私がかけた。
ここはベットがないと簡単に断られた。
またブルースに電話。
またかけて悪いんだけど,ハーレムのクライシスセンターにベットがないと言われたんだけど、
というと、今度はブロンクスの電話番号をくれた。
何度も電話して悪いわね。
と言うと、
気にしなくてもいいですよ。困ったらいつでもして来なさい。
と言ってくれた。
はっきり言って、
ブルースがくれる電話番号はどんどん北に向かって危険な地域に入って居るなと私は思った。
勿論,ブロンクスと聞いてグラムがかける訳がないので,私がかけた。
”月末はいっぱいになるのよ。ベットを見つけるのは難しいと思うわよ。それで、彼、お酒飲んでないのね。クライシスセンターって結構厳しいのよ。お酒が抜けていないと受け付けないわ。”
私が別れた妻でこんなことをする必要はないけれど、見かねて電話していると説明したせいか,彼女は凄く私に優しかった。彼女の説明でクライシスセンターというところがどんなところか分かったし、グラムが何を見たのか分からないが、彼の言うほどひどいところには思えなかった。
とにかく、努力はしたが、グラムを送るところを見つけられなかった。
仮にこの2つのクライシスセンターが空いていたとして、グラムが地下鉄に乗って、ブロンクスに行くとも思われなかった。
じゃぁ、私がお金を出して彼をホテルに入れるか?
彼はホームレスでどこか寝るところを探すか?
うちに迎え入れるか?
3択しかないようだった。
グラムが公園で寝ると電話して来た。
この際、公園に寝てもらおうと思った。公園に寝れたら、たいしたもんだと思った。
11時ごろ、電話が鳴った。
”寒くてとても公園には寝れない。”
思った通り意気地なしだった。
”で、迎えにこいと私に電話しているのね。”
”頼む。
車の中で寝てもいい。”
”どこのパーク?”
”47丁目の、、、。”
”わかったわ。自分が住んでいたマンションの前で待っていて。”
”ありがとう。”
”ケント,アンタのおとうさんは一晩も公園で寝れないそうよ。迎えに行って来るわ。”
’えええええ。ここに来るの?”
”仕方がないわね。この事態では。そのつもりしなさい。
車の中で寝ると言っているわ。”
ケントは本当に嫌な顔をして、
”車の中なんて、嫌だ。”
”じゃ、地下はどう? 今日は地下で寝てもらうわ。それでどう?”
ともかく、グラムがここに来るというこということ自体に問題がある。
また、ブルースに電話した。
クラーシスセンターは無理だったこと、グラムが公園で寝れないこと、私がここでそこに入るまで面倒を見るから、酒は絶対に飲ませない。
できだけ早くベットを見つけて欲しいと頼んだ。
ついにブルースはこう言った。
フーディ、明日の朝また電話をしてきなさい。キャンセルが入るってこともあるから。
2009年12月2日水曜日
17. 馬に水。
”すぐに電話が出来なかったけれど、メアリと喋ったわ。
私とフーディがグラムの子供を持っているという理由で、グラムの全ての問題ごとのとばっちりが来るのは困る。特にフーディは近くに住んでいるからグラムが助けを求めて、しかも面倒を見なくてはいけなくなるから、可愛そうだって言ってやったわ。私は遠くに住んでいるから直接、問題を被らなくて済んでいるけれど。癌だと連絡があって、子供たちがパニックになったこととか、いろいろ言ってやった。彼女はそれはひどいわねとすごく同情してくれたわ。
でも彼女もこの12年間大変だったようよ。
彼女の豪邸は抵当に入って手放したのだそうよ。彼の保険代に1500ドルも払っていたそうだし、グラムのアル中で苦しんだと言っているわ。彼女も気の毒よね。
メールのアドレスくれたから、これからは楽に連絡出来るから助かるわ。”
さすがにこの2人はお金のことを沢山喋ったようである。
私が決して聞かないサブジェクトである。へレンが仕入れてくれるインフォは私が訊けないことばかりなので助かる。
メアリの人生がグラムのせいで大変だったと聞かされても、それは彼女の選んだ人生である。私が今、こうしてグラムのことで神経をすり減らさなくてはならないのは、とばっちりである。そこのところの違いをメアリにはどうしても分かってもらわなくてはならない。
メアリがカレンに送った今後のグラムの行き先を書いたメールはCCでうちにも送られて来た。
私もメアリが電話して来てくれたこと、病院に行った時のこと、グラムの状況などを簡単に話した。
一人の男に3人の女が関わっている。しかも私以外はお金を持った美人である。
グラムという男は、やっぱりラックを持っていると私は思う。
次の日の早朝,7時前、グラムからメールが入った。
どうやら、朝早く病院を出て行くようであった。
全ては予定通りにいってもらいたいものだ。
私は作品を創り始めていた。この状況において、作品作りは私の精神安定剤となった。作品を創るということは、一から何かを生み出す作用である。作りながら、デザインを変えていくので楽しい。仕事のように決められていないから、どんどん意欲もわいてくる。
手作業をしている間は、同じことを考えていても、苦にはならなかった。
彼がイギリスに送り返されて以来,電話が鳴ると、ドキッとするのが続いている。
グラムでありませんようにとIDを覗き込む。
それがこのところ,ずーっと、それはグラムなのだ。
病院にいている間はまだ居所がはっきりしていて安心だったが、誰の監視下でもなくなったグラムの足取りには不安があった。メアリは今日、スコットランドに発つはずだ。
”本当に服や何かとありがとう。全部ちょうどいい大きさだった。”
”そうよかったわ。新しい場所はどう?”
”行ったが、出て来てしまった。それは、それはひどいところだった。あんなところにいたらエイズになってしまう。注射を打とうとしたんだ。本当に、ひどいところなんだ。”
”YMCA。ミッドタウンの。”
話し方から、酒を飲んでいると私は思った。
一体、どうする気なんだろうか?
”Pに連絡してくれたか?”
”いいえ、まだしてないわ。”
”まだ、カリフォルニアにいるみたいだ。”
”これからどうするの?”
”あぁ、大丈夫だ。何とかする。じゃ。”
お決まりの文句だったが、どうなるとも思えなかった。しかも、また酒を飲んでしまうとまともな思考能力はなくなる。全くお金のない人間がYMCAに泊まるのも難しいんではないだろうか?
私が知る限りでは、私が渡した60ドルだけのはずである。
電話をとるのが怖いと思ったのはこれが始めてのことだ。
この調子だと、警察から死体があがったと連絡があってもおかしくないような気がした。
だから、電話がないと今度は心配になる。電話がグラムからである限りは生きているんだから良しとしなければならなかった。
ジョージから電話。
”グラムから電話があって、謝ってくれたんだ。
私も余り時間がなくなって来たので、仕事に没頭する必要があった。スケージュールを決めて、ひとつひとつしていかなければ、ショーに出す作品は間に合いそうになかった。
それに私は私の友達を自殺でなくしている。彼女は夫の浮気相手が彼女の親友と分かった日から毎日,死んでやると言って、本当に逝ってしまったのである。父の死ぬ2ヶ月まえのことだった。そんなことが起こるとは、あの時は思わなかった。だから、怖いのである。そんな連絡だけは受けとりたくないのである。
とメールボックスに残した。
”どうしたんだい?こんなに朝早く。”
”お金を貸して欲しい。このことはお母さんには内緒にして欲しい。”
というメールを送ってきて、
ー ジョージから電話があったんだけれど、グラムはトムに謝ったらしいの。そのことを聞いた後、
クレークにお金を借りようと思うなどとは、グラムはすっかりいかれている。
ジョージの誕生日は忙しい日となった。ビルからもメールが来た。
ー ケザウィックに行くべきだと思う。おそらくこれが彼の人生で立ち直るための最後のチャンスだろう。彼の場合,すでに頂点を超しているから,余り期待ができないという気もするが,本人がその気になるならば、僕が手付けにいるという240ドルを出そう。これぐらいしか僕は彼にしてやれない。これ以上のことはできない。これ以上のお金は出せない。今回,彼が更生出来なければ,もう僕たちには何もしてやれないだろう。チェックを送る住所を教えてくれ。今,孫が来たのでしばらくは、ばたばただ。ビル
誰が水飲み場まで連れ行くんだ?
2009年11月30日月曜日
16. 服がない。
明日、病院から出されるんだ。
だが、服がないので看護婦さんが探してくれている。
どうして服がないの?
”よく覚えていないんだが、どうやらパジャマでここに来たらしい。”
どうしても明日、出て行かないといけないの? 居候しているところの友達は服を届けてくれないの?
”彼は今、カリフォルニアにいる。”
それで、私が服を持っていかなければならないのね? でも、持っていけるのは夕方になるわ。ケントをキャンプに連れて行って、迎えにいかないと行けないから。 Detoxに移るんじゃなかったの?
”明日、出て行けと言われてるんだ。
病院はそういつまでも置いてくれないんだ。
君のところにPが帰って来るまで、泊めてくれないか?”
それはできないわよ。しばらく日本にいたから、仕事が山ほどたまっているもの。
”そうか、俺はホームレスか。”
といって、電話を切ってしまった。
グラムは何度もうちに泊めてくれと頼んで、ノーと云われて、怒って電話を切っている。
どうしてDetox unitに移らないで病院をだされるのだろう?うちに置いてくれと言っている。どうしたらいいんだろう?
と書いて、ヘレンにメールした。
うちには医学生がいるから、的確に答えられるわ。グラムがDetox unitに行くのを拒否したのよ。それから、クレーグが言うんだけれど。あなたがグラントを引き取らないからといっても、決してあなたの責任ではないわ。当然の拒否だと言っているわ。グラムに何があってもそれは彼の自業自得なのだから。
癌で死にかけているからなのか、アル中が完全に精神病化してしまっているのか、グラムの精神状態はおかしいわ。とても危険だわ。ましてや、そんな状態の人間を家に入れるなんて考えられないわ。
全く、あなたの立場に本当に同情するわ。
私達はあなたとケントが危険な目に遭わないようにと祈るしかないわね。
と返事が来た。
彼らが心配してくれるように、うちに入れるなどもってのほかの状態なのだ。
けれど、彼はこの後どこへ行くのだろうか?
翌朝、タイミングよくキャロルからのメール。
メアリと話したわ。彼女の電話番号をあなたに渡してもいいって言ってくれたわ。 xxx-xxx-xxxxx、これがメアリの番号。彼女がグラムの健康保険は今月末で切れるらしいわ。 早速でも、電話して詳しいこと聞いた方がいいわ。 がんばってね。
私はケントをサッカーの早朝練習に落とした後、メアリにダイアルしたが、留守番電話に通じた。”電話と下さい”と私の携帯の番号を残した。
彼女から電話がかかって来たのは、私がゼントをサッカーの練習から迎えに行く運転中だった。30分後にかけ直していいだろうかと聞いたら,1時間後にしてくれというので、時間通りに電話した。
また彼女は電話に出ず、留守番電話に繋がった。
それから、15分、30分おきに電話したが、出なかった。
うちにおいてくれと頼んでいるグラムの話しをメアリとどうしてもしなくてはいけなかった。運転中だったために話しが出来なくて、そのチャンスを逃したら、もうチャンスはないのか?全ては彼女中心でなくてはいけないのか?彼女のクィーンのような態度が許せなかった。
昼に今度はアイスホッケーのキャンプにケントを連れて行かなくてはならなかった。
その足でターゲット(大手スーパーマーケット)にグラントの服を買いに行った。
もう3時間もメアリから電話がない。
ターゲットの駐車場で私は怒りを抑えきれない口調でへレンに電話した。
”オーマイゴット。かわいそうに。電話番号を言って。私がかけてやるわ。”
私は悶々としながら、グラムの服を選んでいた。
ホームレスなのだから、アイロンをかけたりしなくてはならないものはいらない。
サイズは?ミディアムでいいわよね。
スエットシャツ,スエットパンツ、これがいい。
カラーT−シャツ、2枚。肌着用のT−シャツ、Hanesのセットのでいいか。
アンダーパンツ。こんなタイプのを昔ははいていたから、こんなんでいいか。5枚セット。
靴下もいるわね。
これから寒くなるから、ちょっと暖かそうなジャージもいるわね。
ぶつぶつ言いながら、次々とカートに放り込んだ。
電話が鳴った。
メアリだった。へレンが電話で捕まえたんだと思った。
”ごめんなさいね。すぐに電話を返せなくて。明日からスコットランドに帰るのですることがいろいろあって忙しいの。”
仕事で?
”母の具合がよくないのよ。”
それは大変だわね。だいぶ悪いの?
”ええ、まぁ。今回は一週間ほどいて、状態によっては長く帰るようにしなければならないと思っているの。”
私も母を亡くしたところだから、よく気持ちはわかるわ。 ところで、グラムのことなんだけれど。あなたがグラムを追い出してから、うちにひっきりなしにグラムから電話がかかるのよ。今、彼は入院しているんだけど、彼と話した?
”アメリカに戻ったとは聞いたけれど話してないわ。”
じゃ、Pと言う人,知っている?
”ええ、グラントのクライアントだから知っているわ。”
そこに居候しているのよ。でも彼が今カリフォルニアにいるから、アパートには入れないらしいわ。その上、そこにある服や彼の持ち物も出せないらしいわ。 今日、病院から出されるらしいのだけれど、服がないから持って来てくれと云われて、買い物しているところなのよ。
”服なんて買わなくてもいいわよ。うちに一杯あるわ。”
うちにあっても、病院にはないでしょ。私はとにかく買って今日届けなくてはならないの。 私はあの人の子供を育てているだけで、あの人の面倒を見る必要はないのよ。 12年前にあなたに手渡してから、私には関係のない人なのよ。あなたが面倒を見れなくなったからイギリスに帰したでは、犬の子ではあるまいし、そう話しは簡単に終わらないのよ。 グラムはへレンに電話して、膵臓癌だって言ったのよ。2人の子供は父親が死ぬ前に会っておきたいから出てくると言う。私は日本から戻って来た日に、うちに置いてくれとメールがあって、ノーと言うと、その次に日に膵臓癌だという電話をしてきたの。その二日後からこの入院騒動。
退院しても行くところがないから、また私のとこに置いてくれと言うんだけれど、アル中を14歳の子供のいるうちにはいれられないわ。私は10月と11月にショーがあって作品を創らなくてはいけないっていうのに、この騒動でちっとも仕事に集中出来ないでいるし、その上、彼を抱え込むなんてできないわよ。グラムにケザウィックに行くように勧めているけれど、本人がその気にならないと駄目だし、順番待ちで、4−6週間かかると言っていたから、申請してなければ入れないわ。ケザウィックって12年前に私が入れようとしたリハブの施設。宗教的に厳しいしから、嫌がっているのだけれど。
”癌なわけはないわ。
わかったわ。どこの病院にいるの?”
セント,ルークス。xxx-xxx-xxxx。
”電話して退院のことなど、詳しいこと聞いてみるわ。それから、友達のダンカンにも聞いてみる。彼の息子がドラックの中毒者のリハブの施設をしているの。何度かグラムをそこにいれようとしたけれど、本人が行きたがらないので無理だったの。”
そうしてくれると助かるわ。
”じゃ、後で。”
へレンの名前は出てこなかった。へレンからの電話で、私にかけて来たのではなかった。
スパーマーケットで私が言いたいことのすべてを話すことなんてできなかった。
12年間,溜まっているものを男ものの服の狭間で聞き取りにくい携帯電話で話すほど簡単な内容ではなかった。聞きにくいと私の声も大きくなる。他の人にも聞こえていたんだろうな。
けれど、また機会を逃すと、この人といつ話せるのがわからないと思って、必死に喋った。
服を買って家に戻り、すでに買ってあった頼まれたものーヘアスプレーとひげ剃り、頼まれてはいないが、最低,生活に必要そうな洗面用具などを私の旅行用の入れ物にセットした。
その後、全てが入りそうなカバンを探した。私が余り使わない革のボストンバック、これをグラムにあげることにした。ちょうどいいサイズだった。
そんなこんなをしている間にケントを迎えにいく時間となった。
メアリが病院側がメアリと話しをさせてくれないと電話して来た。
彼女に病棟と部屋番号を教えた。
そこまですでに知っていれば、身内の者と証明出来て、話しを聞ける可能性があるかもしれないと思った。
メアリがもう一度調べて電話するからというので、家で待機することにしたが、2度目の電話もはっきりしたことがまだ分からないということだった。
メアリ,じゃぁ、私はとにかく病院に向かうわ。看護婦か、もしくは誰か状況の分かる人を私が見つけて、あなたが喋れるようにするわ。私達は今から出るから、私の携帯に電話をちょうだい。
たった5日間の入院中に私達は3回も病院に通うことになってしまった。
運転中にまたメアリから電話がかかった。
”事務局の人と話しが出来たわ。
彼が退院して行くところはラファイエットにあるクライシスセンターでベットが空いているかどうかまだ分からないらしい。その後、ラッセル・E・バレイズデールに行くことになっている.その後は、あなたが言っているケザウィックに行くらしいわ。”
ちょっと待って、運転中にそんなことを言われても、私は覚えられないわ。ケント,覚えれる? そうだわ。今言ったことメールしてくれる? 私、運転中だからケントと話して.この子は何度かそっちに泊まりにいっているし、知っているでしょ。
”ええ、ケント、そこにいるの?じゃ、メールアドレスを言って。”
病院で何かわかったら、連絡するわ。スタンバイしておいてちょうだい。じゃ。
連絡が繋がると、メアリという人は悪い人間ではなさそうだった。電話で事情を聞き出したのだから、たいしたもんだと思った。
フラッシュバック
私は母と話しを電話でした後,大丈夫だと母は言ったが、身体に酸素が入っていない気がして、福祉の人に母を訪ねてほしいと連絡した。その彼女が倒れている母を見つけて救急で母の病院に運んでくれた。その連絡を彼女から貰って、すぐに病院に電話をした。すると、緊急病棟の医者は、アメリカからかけているというのに、個人情報保護法により、病院まで来ていただいて身元を確認しないとお話し出来ませんと言ったのだ。今にでも死ぬかもしれない母のことをアメリカにいる娘に話しができないと整然と言い切ったのだ。日本は馬鹿である。だが、私はアメリカでも諦めないように、日本でも諦めなかった。その後は、私が日本に帰るまで、毎朝、9時に電話を入れると看護婦さんたちが母の病状を教えてくれるということになったのだった。
3度目の来院は簡単だった。駐車するところも、病室も知っている。
7時をまわっていたので、また部屋は暗かった。
隣りのベットには違う人が寝ていた。咳き込んでいた。
アメリカで5日間入院するというのは非常に長い。手術でも当日や次の日に出されるのが普通である。
服を持って来たわよ。サイズが合えばいいけれど。好き嫌いはこの際諦めてもらうわ。
どこに行くか知らないけれど、アイロンがいる服はいらないでしょ。
と言って、ひとつずつ広げてみせた。
結婚している時,彼は何一つ私が買って来たものを着なかった。だから、私は今回も彼のものを買うのは嫌だった。感謝されるはずもないと思っているからである。
自分で言うのもなんだが、私は趣味がいいと思っている.それなのに、感謝されなかったのは、彼が私をひどく見下していたからだと思う。
ひげ剃りはこれでよかったのかなぁ。
”うーん、頼んだものとは違うが、それでいいよ。気にしなくていい。
悪いなぁ、助かるよ。パーフェクトだ。ありがとう。”
と意外とまともに感謝してくれているような答えが返って来た。
”これが僕が行くところだ。看護婦がコピーしてくれた。”
メアリが言った通りで、クライシスセンター、ラッセル・E・バレイズデール、そしてケザウィックもプリントアウトされていた。
”ここはひどいところだと聞いた。ホームレスの集まりだそうだ。”
それはラッセル・E・バレイズデールだった。
ケザウィックに電話したの?
”した。申し込んでから4−6週間くらいかかると言っていた。”
私のところに来れないと昨日確認した後,どうやら、病院側がホームレス用に情報を与えたようだ。
もう遅いから、今日は退院させないでしょ。
”そうだといいがなぁ。”
大丈夫よ。今日はゆっくり寝た方がいいわ。明日は大変でしょうから。
”お願いがあるんだ。Pに連絡してくれないか?彼のところ置いているものを引き取りたい。明後日くらいにはカリフォルニアから戻って来るはずなんだ。けれど、僕はどこに行くことになるか分からないから、君にが引き取って来てくれると助かるんだが。コンピューターなど需要なものが預けたままだし、こうなると、彼を信用出来ない。彼の連絡先はメールで送っておく。今,全く現金がないので40ドルほど貸して欲しい。スーツケースの中に300ドルほど現金が入っているはずなのだが、そのお金は君に貰って欲しい。”
やりたくない仕事だと思った。この友達も想像外のとばっちりで、きっと怒っているに違いない。できることならば関わり合いたくなかった。
Pを信用出来ないなんて言ったら罰が当たるわよ。あなたの面倒なんて見る必要もないのにイギリスから戻ってから面倒を見てくれた人でしょ。感謝すべきだわ。
できることなら、自分でやってくれるといいんだけれど。自分で自分のものは確認した方がいいでしょ。
”できればそうしたいが、できないと思う。”
私が持っていた現金全部,60ドルを渡した。そして、グッドラックを言い渡して、退散した。
私達は晩ご飯も食べていなかったので、かなりお腹がすいていた。病院の前にデリとクレープ屋があった。そのクレープ屋は甘くておいしそうな匂いがしたし、人の入りもよかった。けれど、晩ご飯に甘いものという気分にはなれなかったので、隣りのデリでスープを頼んだ。なかなかおいしかった。
ここに来るもの最後よね。これも思い出になるわね、そう思わない?
”凄い思い出だね、マム。”
はははと私達は笑った。
食べ終わって車まで行くまでに、ケントはこういった。
”40ドルって言っているのに、60ドル渡すことなかったんやないかなぁ”
鋭い指摘だった。
できるだけ必要な物を詰めたつもりだけど、まだ必要な物があるかもしれないじゃないの。買い物をしたら、すぐなくなる金額だもの。
自分が一番、お金に困っているのに。
それはそうだ。
はははと私は笑った。
2009年11月27日金曜日
15. 癌なの?
精神的に頼れる人を失したわけだ。
そのせいか、それからは一番上の兄、ビルの名前を出すようになった。しかし、ビルとは精神的に距離があり、余程のことがない限り頼るとは思えないのだ。それでもビルに連絡してくれというのだから、余程の事態なのかもしれなかった。
へレンに癌だという電話をした時もスコットランドに帰るようなことを言ったみたいだし、最悪はスコットランドに帰るつもりなのだろうか。
彼は父方のイギリスの血より母方のスコットランドの血を誇りに思っている。だから家紋を入れ墨している。生まれもスコットランドである。そして、メアリもスコットランド人である。
私が大阪で育ったのに、両親の里で、私が三歳まで住んだところ(信州)を自分の里と思っているのと近い感情なのだろうか?私は大阪人ではなく信州人なのである。彼がイギリス人といわれるより、スコットランド人といわれたがるのと同じだ。
私もスコットランドのキャロルに連絡を取りたかった。彼女なら、メアリの電話番号を教えてくれるかもしれないと思ったからだ。しかし、キャロルのメールアドレスはあるが、電話番号がない。
そうだ、へレンだ。へレンに聞いてみよう。
ー 今日、病院に行って来たけれど、グラムはしばらく死にそうにないわ。書くことが多すぎてメールでは無理。電話にして。 ジムに連絡しろといわれたんだけれど、メールのアドレスはあるけれど電話番号がないのよ。 教えてくれる? じゃ。
とメールした。
ー 一体、どうだったの?何があったの?
今晩電話するわ。xxxxxxxxxxxxx これがビルの電話番号,変わってなければいいわね。
じゃ、後で。
とメールが返って来た。
キャロルに電話した。
”メールでは言いきれないから電話にしたのだけれど、元気?”
"私達は大丈夫だけれど。
ごめんなさいね。私達がイギリスに行かれない間にグラムはアメリカに帰ってしまって、私達は何も出来なかったわ。ジョージもパムも何も話してくれないのよ。話したくないみたいね。本当に簡潔なことしか言ってくれないの。酒を一杯飲んであばれたらしいわ。ひどい人間だと言っているのよ。"
”私にもイギリスでのことはよくわからないけれど。私が日本に行く3日まえにグラムがアメリカに戻って来たという電話をしてきたの。
それから、私達は3週間日本にいたの。そして、アメリカに戻ったら、3日前なんだけど、グラムからの電話で膵臓癌だというし、一体、何がなんだか分からないのよ。
グラムは私が日本に居る間にへレンにも電話して、膵臓癌だって言ったのよ。クレーグやジュリアもそう思っているらしい。グラムはまた入院しているのよ。グラムが病院から電話して来たときは、癌で死ぬと思って驚いて飛んで行ったのよ。
私はどうしてもメアリに連絡を取りたいの。メアリの都合でグラムにしていることが、こうして私のところにとばっちりが来るのよ。それなのに私は12年も彼女の連絡先を知らない。ジョージはこの12年間,決して教えてくれないし、ましてやグラムが教える訳がない。これではらちが明かないのよ。頼むわ、キャロル、私を助けて。”
”分かったわ。あなたのために何でもしてあげる。今ここに電話番号を持っていないけれど、調べてメールするわ。
かわいそうに、ろくでもないグラムのお陰であなたはいつも迷惑を被って。かわいそうだわ。何とかしてあげる。”
”ありがとう。助かるわ。”
”それで、グラムは癌なの?”
”私は癌ではないと思うわ。”
”そうよね。そんなはずはないわ。ジョージもでまかせだと言ってたし。
とにかく、私に任せて。”
とキャロルは優しかった。
その夜、へレンから電話。
”どうなっているの?グラムは?”
”グラムは大丈夫よ。酒の飲み過ぎで救急車で運ばれた時に打った膝の痛みで苦しんでいるだけ。”
"それで彼は癌なの?"
”あくまでも私の意見だけれど、癌ではないのと思うのよ。頑強な内蔵だわ。あれだけ飲めば、癌で死んでいてもおかしくないわよ。今度来る時はひげ剃りとヘアスプレーを持って来て欲しいというのよ。”
へレンは声を高くして笑った。
“私でもヘアスプレーなんて使わないわ”
グラムとはそういう人なのある。身だしなみに気を使う人で紳士でなくてはならない人なのである。
”でも冗談でも言うことではないわ。癌だなんて。クレーグやジュリアまでに心配させるなんて”
と、今度こそ真剣に怒っているようである。
私はこの二日間の話しを極力簡潔に話した。
”私はもうグラムにはお手上げだわ。関わったところで何もできないし、頭に来るだけだわ。
彼がまともな人間で、養育費を送ったり、子供たちに会いに来たりしてくれたら、私もこんなに働らかなくてもよかったって思うし、楽に暮らせたかもしれないのに。あの人のアル中で、私は本当に苦労したのよ。これ以上は、もう、願い下げ。あなたもそう思ってもう関わらない方がいいわよ。ケントの人生が一番大事。”
私も関わらなくて済むのなら、関わりたくなかった。
けれど、電話がかかって来るのはうちなのである。
そして、グラムが皆に言った膵臓癌は真っ赤な嘘と私は報告する必要があった。
2009年11月26日木曜日
14. 病室。
私達は夕方5時頃でかけ、すったもんだで長い間,緊急病棟にいたので、グラムの部屋に入る頃には日が沈みかけている時間になってしまった。部屋全体の電気がついてないせいか、暗かった。個人用の間接ライトだけだからだろう。
私達が見えると、グラムはまた昨日のように、目を大きくして驚いた。
昨日のことも覚えていないのかもしれない。また、明日来るわねといった言葉など覚えていないのだろう。
”ハイ。”
”ハイ、ダッド。”
今日のグラムはちゃんとした入院患者だった。布団だってかけてもらっているし、枕だってある。ベットの背をあげて座っていた。
同室の患者にハローと言うと、にこっとして、ハローと言った。同室の人はテレビを見ていた。テレビは天井から吊るされ、各自にあてがわれている。
グラムのテレビもついていた。
まず、私達は同室の患者に迷惑にならないようにカーテンを引っ張って仕切った。
”今日はどう?”
”膝が曲がらなくて、動けない。”
と言って膝を指差す。
”少しは寝れた?”
”いや、寝れないんだ。すぐに起きてしまう。膝は凄く痛むし。”
と言った後、何かを探し出した。看護婦さんを呼ぶベルを探しているという。
ベットの外側にぶら下がっているのを見つけて手渡した。
ー どうしましたか?
”すまんが、痛み止めの薬を持って来てくれないか、さっきから頼んでいるんだが。”
ー 持って行くから、もう少し待ってね。
”どうも、ありがとう。”
お酒はやや抜けているように思うが、彼の酒の量は私達の量ではないので、一日なんかで抜ける訳はない。
いろいろと聞かなくてはならないことがあるが、酒が抜けていないと話しにならない。
酒が入っていると、自分の都合の悪いことになると怒ってしまうからである。顔色を伺いながら、タイミングよく話しをもちださないといけない。
こういったところの彼の性格は私の父と似ているので、父と接するのと同じ要領でやらなくてはならない。
私は死ぬほどメアリの電話番号が知りたかった。ケントはそのことを知っているので、今日もグラムの携帯を手に入れることが自分の使命だと思っている。
そんなケントにグラムを任せて、私は詰め所に行ってみた。
そこで私は彼の前妻で彼の息子を連れて来ているのだが、彼の病状を知りたいのだが、誰かと話しはできないのかしら?と看護婦さんに聞いてみた。
カルテがあるから分かるけれど、彼の了解を得なくちゃね。
”彼女があなたの病状を知りたいって言っているけれど、話してもいいの?”
と看護婦さんがグラントに聞いた。
”勿論!そりゃ、いいとも。”
と言った。
看護婦さんと私は詰め所に戻り、看護婦さんはカルテを見ながらこういった。
”膝の打ち身がかなりひどくて歩行に無理があるので、本来はDetox病棟に入れられるのだけれど、歩けるようになるまで普通病棟のようね。”
”じゃあ、いずれは向こうに移るのかしら?”
”そうね、多分。”
”本人は自分が癌だと言っているんですけれど、そういった検査はしないんでしょうか?”
”うーん。分からないわね.そんなことは全く書かれていないし、ここには酒の飲み過ぎ,アルコール中毒のことと膝の打ち身のことしか書いてないわ。”
これは今から考えると、グラムのラッキーの1つである。
今まで、何度もグラムは病院にこうして入っている。5日ほど酒抜きをして出て来ては、また酒を飲むということを繰り返しているはずである。もし彼が膝を打っていなければ、面会謝絶の病棟に監禁されてしまっているので、私は病院に来たところで、何も分からなかったということになる。私はグラムの言うことを80%まであてにして聞いていないのある。彼の話しに裏付けが必要なのである。彼は大ほら吹きだが、100%嘘ではない。20%くらいまでは事実で、そこに80%の装飾品がつくのである。その80%の真実は彼の人生に関わっている人間から聞くしか方法がないのだが、この12年は全くメアリとの連絡はできなかったので、私はグラムの12年は何も知らないと言って過言ではない。唯一聞き出せるとしたら、ジョージだったが、彼は私に何も教えず、”メアリとグラムには関わるな”と言い続けたからである。
だから、こうして病院で第3者の話が聞けるのは大変有り難い。
12年前にタイムスリップ
私がグラムを追い出した後、彼の働いている会社の社長がグラムが入院と連絡して来た。もちろん、私のことだからすぐにでも飛んで行こうとしたが、ケントを預けなくては行けないので、預ける友達・シンディに相談した。私は拘束オーダーを取っていたのでグラムと直接会ってはいけない。そういうことも含めて、会いに行かない方がいいとシンディとその家族ははアドバイスした。そしてこの時の私は強く彼に会いにいかなへればとも思えなかった。何があっても彼の自業自得、私には関係ないと思った。
メアリが見舞いに行ったということは後々、グラムから聞いた。あの時の入院は何だったのだろう。
話しは戻る。
”ここにどのくらい居れるの?”
歩けるようになったら、Detoxに移される。でも、ここには5日しかいれない。
メアリが健康保険をキャンセルしてしまうから、もうここにはいれないと思う。
昨日、話したドクターがリハブの30日のカリキュラムがあると言っていたわ。聞いてみたら? 保険やお金がないなら、Keswickに行って欲しいと私は思っている。 私はリハビリのことに詳しくないし、ここしか知らないからここを勧めているけれど、4ヶ月集中治療でしかも、更生率が高いし、試す価値があると思う。 連絡先とかプリントアウトして来た。その気になったら電話して。
*Keswickとはー宗教団体がボランティア(無料)主催するアルコール中毒者のためのリハビリ施設。男性のみ。120日のプログラムで家族とのオリエンテーションもある。
12年前にタイムスリップ
グラムの自殺騒動で呼び出された時(”イギリス,そして入院”に記載)、彼はホームレスになるところだった。
私は彼のアルコール中毒から脱すれば、人生をまともに考えれるようになるのではないかという期待は捨てられなかった。彼の人生は酒を機転にして狂っているからだ。
私が故意にしているアメリカの家族がKeswickと云うリハビリの施設を教えてくれた。
私はグラムを連れて、そこを訪れた。
1時間ほど南にある施設で、大きな池があり自然に囲まれたいいところだった。池の周りを歩いて、ここに入るなら、私は協力したいと言った。
Keswickの人はこう私達に説明した。
本人がその気にならなければ、ここには来れないんです。非常に高い確立で更生するので、とても多くの人が入りたがっているので、順番待ちということになります。条件としては、ここに入りたいという意思表示が必要なので、毎日、電話をかけてきて頂きたいのです。
その強い意志が順番を早めることもありますが、2,3ヶ月かかるかもしれません。
ホームレスとなったグラムがそこに入るにしても2,3ヶ月、彼が滞在する場所が必要だった。
私達が懇意にしているアメリカ人の家族はバブテストの信者で、非常に信仰心が強い。彼らが教えてくれたKeswickも非常に信仰心が強いところである。グラムはそれがどうやら嫌なようではあったが、信仰心なしに更生はできない。
その家族は彼をKeswickが受け入れるまで、彼らの地下に住んでくれても構わないと言ってくれた。そして、グラムはそのリハビリに行くと言ったので、彼らのところに居候することになった。彼が居候をしている頃、その家族はバケーションで6日間留守をしなければならず、グラムはその家に一人で一週間ほどいなくてはならなくなった。
毎日、芝生と花に水をやることとゴミを出すのが彼の仕事だった。
しかし、彼のボロは出た。
彼らが戻ってくると、芝生と花は水に飢えて乾いていた。酒を飲んでいた形跡。Keswickに電話をかけた記録は全くなく、メアリに電話をかけた記録だけが電話の明細にはっきり記されていた。
信仰心の強い彼らもここまでが限界で、すぐに出て行ってくれとグラムを追い出した。
12年前のグラムの行動は本当に悪魔のようだった。
かかわるな。であった。
話しは戻る。
今回もグラムがKeswickに乗気でないのは、彼の対応で分かった。
それが宗教的な理由であることも知っている。
けれど、ホムレスのグラム行くところは限られているように思えた。
かといって、本人の強い意思がなければ、どうにもならないというのも事実であった。
”これは万が一の手段として考えてみて。”
と紙をベットの横の棚に置いた。
数日で病院を追い出されるのだから、膝が痛いと言って寝ている場合ではないと私は思う。
私の家は受け付けられないのである。
私達がそろそろ帰るという頃、看護婦さんが痛め止めの薬を持って来てくれた。
その看護婦さんに、
これが僕の息子だ。と自慢げにケントを紹介した。
そして、
”ビルに僕が入院していることを連絡してほしい。
それから、今度来るときひげ剃りとヘアスプレー、ブラシを持って来てほしいんだ。トラベル用のやつでいい。ひげ剃りは10ドルくらいで買える使い捨てのやつ。”
と言った。
”いつ来れるか、約束はできないわよ。”
”分かっている。もし、都合がよければだ。”
帰りの車の中でケントはこう言った。
”マム、ダッドは電話を肌身離さず持っていて、あれを貸してくれというのは無理だったよ。”
”分かっている。いろんなことが無理だった。Keswickには行かないと思うわ。”
Keswickって何?
12年前の話をこの子にもしなくてはならなかった。
”宗教的に厳しいんだろ。ダッドは無理。”
と言い切った。
”でも居心地のいいところに送る訳にも行かないわよ。”
う〜んと2人でうなってしまった。
2009年11月25日水曜日
13. 病院。
返事がない。
”会いになんて行きたくないよね。私だけでもいいかぁ。”
”じゃ、行かなくてもいい?”
ほっとしている感じだ。そりゃそうか。
”そうよね。癌じゃなし。”
と朝に会話を交わして、
また昼に同じことを聞くと、
”行かなくてもいいって言ったじゃないか。”
”そうだけど。アンタはいかなくても、やっぱ、私は行った方がいいと思うのよね.ひょっとしたら癌のこと調べてくれたかもしれないし。平日は行きたくないし。”
”じゃ、行ってくれば?”
”そういう人ごとのようにいわないでくれる?
あの人は私の彼氏ではなくて、アンタのおとうさんなのよ。
一番、私が危惧するのは、私がこうしてあの人に優しくすると、私がグラムのことを好きだからしていると思われたくないのよ。あくまでも、私とあの人の関係には彼の息子のアンタが居ると云うことを分かっていて欲しいのよ。アンタなしで行くと、私はあの人の彼女みたいじゃないの。あの人はメアリが必要なのよ。 現在の状況において、メアリは彼の面倒を見ていないけれど。人道的に、こういう状態の人に ”勝手にしたら” と私は言えないのよ。しかも、うちに電話がかかってくるじゃない。
とにかく、グラムは自分の家がないのだから、この後どうなるのかも聞いてみないと。私には何のインフォもないし。その上、こうして、困ったときにだけに電話をかけてこられて、しばらく泊めてくれって言う訳だから。やっぱ、情報収集のためにも行った方がいいわ。 それから、いろんなこと一緒に聞いていて欲しいのよ。いざという時、私と同じことを聞いた人がいると裏付けになるし、、英語で分からないことがあっても、アンタに聞けるし。 やっぱ、アンタも一緒に来るべきだわ。”
嫌そうな顔ではあったが、
”分かった。理にかなっているな。一緒に行くよ。”
と言った。
今度は場所が分かっているので、たった15分で着いた。しかも、停めるところも知っている。昨日と同じところが空いていた。
昨日の緊急の受付で面会したいというと、
Detox棟での面会は認められていないと言われた。
けれど、手紙やなんかは手渡してあげれるという。
”ドクターに話しはできないの?昨日,救急車で運ばれて、奥の部屋でドクターと話したのよ。そのドクターと話しがしたいわ。”
”ドクターの名前は?”
おっと、私は名前など全く覚えていないのである。勿論、ケントも。
ケントがしきりに、あのドクターはギリシャのなまりがあったと言う。
”緊急室のドクターに聞いてくれない?彼女はギリシャなまりがあったって、息子が言っている。そう聞いてもらったら、名前、分からないかしら?”
そこに座って待っていて。
待っている間、手紙を書くことにした。
ーー電話が出来る状態だったら、Keswick に電話をして欲しい。これがKeswickのインフォメーション。今を逃したら、立ち直るチャンスはないわ。私も一緒に助けるから、ここに電話して。
と書いた。
私達の隣りに黒人の女の人が彼女の兄と座っている。彼女はふらふらになって座っていることも出来ない状態。
酔っぱらっているのか?身体障害者なのか?
兄が病院の人に文句を言っていることから、私とケントは彼らの問題を理解し始めた。
どういう理由で緊急室に運ばれたのかは分からない。彼女の兄は誰かからか連絡があって、妹のトラブルを知ってルイジアナから出て来たらしい。その妹は薬を投与されて病院を出されるらしいが、立っていることも、座っていることすらできない状態。こんな状態の彼女をどうやってブルックリンまで連れて帰れというのだ。高いタクシーを呼べとでも言うのか?と兄は病院側に談判している。病院側は置いておけないので、帰ってもらわないとこちらも困ると聞く耳を持たない。
その理由が彼らの保険によるものなのか?
すでに処置はしたので、それ以上は病院の管轄ではないというのか?
私達には理由はよくわからない。
ケントはこの状況を”気の毒だ。”と私に耳打ちした。
私も気の毒だと思ったが、私の車で送りましょうかなどと言っている場合ではなかったので、見ているしか仕方がなかった。
待てど暮らせど誰も来そうにもないので、また受付に行ったら、違う人が立っているので、また同じ説明をした。すると、すぐに緊急室のドクターを呼んで来てくれた。
このドクターは隣りの黒人の兄妹のことやいろんなことでイライラを隠せないようで、私との話しもイライラしながら話した。
私の探しているグラムは緊急室にはもう居ないし、私達はもう彼の管轄ではなくなっているから、どうすることも出来ない。もう一度、受付に調べて貰いなさい。グッドラック。
ということだった。
あのドクターは、ストレスで一杯なんだわ。かわいそうなくらい,イライラしている。休養が必要だわ。 アンタの兄のクレークはERの医者になると言って大学で勉強しているけれど、彼にエマージェンシーが勤まるかしらねぇ。
と呟いてしまった。
もう一度、受付でグラムがどこに居るか調べてくれと頼んだ。
この人は丁寧に調べ直してくれた。すると、なんと、
グラムはDetox棟にはいなかった。どうやら身体に問題があって普通病棟で治療をうけている要なので、ここを出て隣りのビルに行きなさいと言ってくれた。
”最後まで諦めないことよね。ケント。 一緒に来てくれて、本当によかった。一人だとめげるわ。”
全く、うちの子はこういうことに関しては、最高のつれである。
普通病棟ということは、やっぱり癌だったのかな?と頭をかすめたが、会えば何かが分かるし、最初に面会謝絶と云われて、諦めて帰らないで良かったとつくづく思った。
こうして可能性が見えるまで頑張ってみる。すると、うまくいくこともあるというのは、私がアメリカで学んだことである。
頑張っても無駄ということも確かにあるが、どちらに転ぶかは”人事を尽くして天命を待つ”か、私のサイキックに賭ける。
隣りの病棟は緊急病棟に比べると、ほっとさせてくれる。静かである。
緊急病棟はテンションが高すぎる。
グラムね。
とコンピューターで調べて、
6階で降りて右に曲がってください。xxx号室です。
また、ガードマンみたいな黒人の受付の人が言った。
私は何度も黒人の受付と繰り返したが、確かに黒人が多いのである。
しかも、受付がガードマンみたいというのは、この病院が始めてのことなので、つい、繰り返して書いてしまった。
この病院はハーレムにあるということを忘れてはいけない。昔はハーレムと云うとドキッとするほど怖いイメージがあったが、今は治安もよくなっている。
お洒落なレストランやお店も多いということも付け加えていきたい。
しかし、ここはニューヨークのハーレムでニュージャージではない。いくら治安はよくなってたといってもニューヨークである。
2009年11月18日水曜日
12. 癌騒動。
"今、病院からかけているんだが。"
とかなり状態が悪いと思わす話し方。
どこの病院に居るの?
"セント、ルークス ホスピタル。"
行こうか?
”いや、来なくていい。”
と言った後、
”ウエストサイド。セント、ルークス ホスピタル。”
と繰り返す。
分かった。今から行くわ。
土曜日だったのでゼントもいた。
毎日,父親のことを聞かされているケントは,私のパニック状態を見て見ぬ振り。
内心は癌の父親がこのうちに来るのだろうか?とびくびくしていたに違いない。
私の母が後3ヶ月の命と電話をして来た時、アメリカで一緒に暮らすつもりで手術を受けた母だったから、母をここに引き取ってここで死んでもらおうと思った。私は航空券を買って、ベットを買って,車いすを買って、こちらの受け入れの準備をして迎えに行くと母に言った。結果的には全てはすでに手遅れで,アメリカを発つ前に母は危篤で病院に運ばれてしまった。
癌で死ぬ人間がここに来ると言い渡されたケントは何も言わなかった。
しかし、私の予定は叶わず,アメリカを発つ10日前に母は危篤で病院に運ばれてしまった。
ケントは学校があるし、私はどれだけ日本に居ることになるのか皆目分からなかったので、ケントを友達に預けて、日本に帰ったのだが、こんな状況を彼はどう考えていたんだろう?
息子を友達にそう長く預けれるものでもなく、私も母と息子の板挟みになって落ち着かないので、ケントの冬休みに引っ掛ければ確実に2週間は日本に居れるので、彼の航空券を買って日本に呼び寄せることにした。すると、母はケントの来る一日前に逝ってしまった。母は私を独占したかった。だからケントが来る前に、逝きたかった。私達はちゃんと最後の言葉を交わした。そして、母は逝った。
ケントは母のお通夜に日本に着いた。お通夜の際中となり、私が迎えにいけないので私の友達たちが空港に迎えにいった。12歳の子が一人でよくやってくれたと思う。
自分の家で癌患者の苦しみを見ながら、人が死ぬのを見なければならなかったことを考えると、一人で日本に行くことは簡単なことだったかもしれない。
しかし、今度は自分の父親だから避けれないかもしれないと思っているのかもしれなかった。
インターネットで病院を検索すると2つの住所が出ていて,どちらに行ったらいいか分からないので両方ともをプリントアウトして、急いで2人で出かけた。私は冷静なつもりでいたが,そうでもないのと分かったのは車を運転しだしてからで、ウエストに行くはずなのにイーストまで行ってしまって見つからない。イーストの59丁目をうろうろ。
工事をしている人にセント・ルークス病院は?と聞くと
”ウエスト側”
と言われた。
グラムは2.3年前はイーストの48丁目に10年近く住んでいたので,グラムと云えば、イーストと私の頭は単純に対応したようである。
ウエストに行く。病院を見つけた私は一方通行をさかさまに入ってしまい、タクシードライバーに指摘されて、Uターン。
ゼントは、ついに必要性を感じて、私に落ち着くようにと言った。
すぐに見つけた駐車場に車を入れ、病院の受付で、グラムの名前を言った。
そんな人は入院していない。
大きな中年の黒人の受付はつっけんどんに言った。受付というより,ガードマンと言った方がぴったりしている。
で、で、でも、本人から電話があって救急車で運ばれて入院しているというんで、彼の息子を連れて飛んで来たんです。
’いつの話しですか?”
今日の話しです。
”じゃ,向こうの病院にいるのかな。”
といって,調べてくれている。
あちこちの部署に電話してくれて、ようやく分かったのは、
Detox病棟にいるということ。
最初は怖そうだったけれど、ちゃんと説明すると親切だった。
この道をまっすぐ114丁目まで走ってください。右側にあります。
グッドラック。
と言った。
たった15分の駐車、許してくれないかなぁと言いながら、駐車場へ。
勿論,交渉したけれど、機械を通しているから僕にはどうすることの出来ないよ、と1時間分取られた。この辺りは安くない。
緊急だもんね。仕方ないかぁ。もう一回,駐車場代払いたくないなぁ。
ぶつぶつ,独り言。ケントは何も言わない。
病院を見つけ,ぐるっとその周りを走りながら駐車場もしくは路上パーキングを探した。
1ブロック先にスポットを見つけたが、停めていいのやらどうやら?
駐車違反は高いので、慎重に停めたいところだった。
ブラウンストーンのビルの前で痴話している黒人の住人に、
ここ停めてもいいのかなぁ?
と尋ねた。
”ストリートクリーニングの日以外は大丈夫。今日は週末だし、停めれるわよ。”
気のいい返事で、
病院に行くのでここに停めるわ。見張ってて。
というと、
”そうね。病院の近くにいくとスポットはないかもしれないし、ここに停めて歩いていったらいいわ。”
駐車代を今回は払わなくて済んだ。やはり、神様はいるのだ。
今度こそ、間違いのない病院の受付にグラムの名前を言うと、また、そんな患者は居ないと言われた。
私の問題点は英語力にある。
第1に、私たちはグラムは癌で入院していると思い込んでいた。
第2に、この時点に置いて私は”Detox”とは何であるか分かっていなかった。
ケントは”Detox”の意味が分かっていたかどうか?
ケントは私の英語力を助けなければならないのだが、この状況は英語力以前の問題と云うところもあった。
ここでもまた、グラムはどこに居るか調べて貰わなくてはならなかった。
この受付けもガードマンのような黒人さんである。
グラントの名を見つけた彼は、私達にここを出て隣りのビルの緊急病棟に行くように言った。
救急患者の受付。
ここには今まで会った黒人よりもっと大きくて若い強そうな黒人。しかもガードマンのユニフォームを来た人が立っている。受付ではなく、ガードマンなのだ。
グラムの名前は入院患者の中にはなく、まだ病室に移らず緊急室にいるとわかった。
その部屋は待合室の奥にあり、ドアのところにあるベルを鳴らし、患者の名前を言ったら入れてくれるはずと言った。
言われる通りにすると、すぐに私たちを入れ部屋に通した。
枕もない簡易ベットに薄い着物タイプのパジャマのトップだけを着て、毛布もなく、ただそこに寝かされているのだ。髪はぐしゃくしゃ、ひげもそっていない、手はもうここ何年が震えているので、なお惨めに見える。その上かなり痩せていた。
目を半開きにして私達を見るとグラムは凄く驚いて、
”どうしてここが分かったんだい。”
と聞いた。どうやら電話をしてきたことなど覚えていないようなのである。呆れて、
ミラクル
と答えた。ケントは笑いを堪えていた。
こんな父親の姿をケントが見るなんてかわいそうだと思ったが,すでに手遅れだ。ここは現実直視で人生のお勉強と思うしかない。
グラムは恐ろしく酒臭く、この入院が癌のためでないのは明らかだった。だからといって、癌でないと分かった訳ではない。
救急車に乗り込むときに転んで両足をひどく打ち、歩けないらしい。確かに膝は凄く腫れていて、すねには擦り傷があり、痛々しそうだった。ここに運ばれてから、ずーと検査だった、今はベットが空くのを待っていると言った。
私とゼントが来たことで感情的になって泣くので、横に腰をかけて手をこすってやった。
私は”霊気(Reiki)”を持っているので、痛いというところに手をかざした。
私はこの”霊気(Reiki)”でケントを育てたので、ケントは父親に、
”まぁ試しにしてもらいなよ。効くから”
と言った。
ケントにグラムと2人になっても大丈夫かと聞くと、イエスと言ってくれたので、私はその部屋をでて、ここで働いている人の部屋をノックしてみた。ガラス張りの部屋なので彼らが緊急患者の対応で忙しそうに働いているのはよくわかった。
”もしドクターが居たら、グラムのことで話しがしたいのです。”
というと、
”分かったわ。彼女の手があいたらそっちに行ってもらうわ。”
と親切に対応してくれた。
さほど、待たないうちに、ドクターは部屋に来てくれた。
ちょっと、話が、、、と目配せをして彼女に部屋を出てもらい別の部屋で、グラムと私達の関係を話し、グラムから膵臓癌だと昨日聞いて聞いていて、入院という電話を今日貰ってもらったので、こうして心配して来たのだ。と説明すると、
”癌?そんなこと聞いていないわ。もし癌なら、治療の仕方が違うわ。
ここには酒を抜き(Detox)に来ているだけのはず。ひどく転んだみたいなので、頭などはCTスキャンで調べたけれど、お腹の辺りは調べてないわ。血液検査をしたけれど、癌だと思わせる数値はなかったように思うんだけれど、でも、それは聞き捨てならないわね。本人聞いてみましょう。”
と、部屋に戻って、ドクターは優しい口調で、話し始めた。
”膵臓癌ってどこで見てもらったの?”
”イギリスで入院したときに、ドクターがそんなようなことを言ったんです。”
”CTスキャンを撮ったの?”
”いやぁ、イギリスはアメリカっと全く違ってシステムも貧困で、
そういった検査はしなかったけれど、医者が言ったんです。”
”そう、じゃぁ.ちゃんとした検査はしていないのね。ここで調べた数値は、これだけ酒を飲んでいるのに通常の人と変わらないものだったわ。”
ということは癌の根拠がない。膵臓癌はでっち上げ。
ここに来た収穫あり!
いくらグラムが失望の極地にいるとはいえ、同情が必要だったとはいえ、癌であるなどとよくいえたものだ!しかしこの件に関して、酔っぱらっている人間とまともに話す気はなかった。
グラムは名刺入れのような財布とそれと同じ大きさの電話(ブラックベリー・パール)とそのチャージャーをパジャマのポケットに入れて,それを握りしめていた。
ケントにメアリの電話番号が知りたい。なんとかあの携帯を手に入れないだろうか?と耳打ちした。ケントは任せてくれと言う目配せをしてこう言った。
”ダッド、ちょっと電話を見せてくれない?”
”あぁ、”
と見せた。
携帯電話の後ろのカバーがない。
”携帯、どうしたの?潰れているの?
ちょっと貸して?”
”どうやら、どこかにカバーを落として来てしまったようだな。Pのアパートかの知れないし、救急車の中かもしれない。転んだときになくしたのかも知れないし。”
と言って、携帯をまたポケットに入れてしまった。
ケントの作戦も失敗に終わった。
”明日、また来るわね。ウィークデーは学校や仕事で来れるかどうか分からないから。”
”本当に来てくれてありがとう。”
といって、目を閉じた。
癌騒動でパニックになった私達は帰りの車の中で、
数値は普通の人と変わりなく、と言ったドクターの言葉を復唱して、80%まで癌ではないと確信して ”呆れるよなぁ” と話した。
”ミラクルは最高だったよ、マム”
と笑った。
2009年11月17日火曜日
11. カレンからの電話。
”困ったことになったわね。グラントが膵臓癌だなんて。フーディ,膵臓癌の知識ある?クレークもメディカルスチューデントだし、うちは理解しているけれど。”
ヘレン,勿論よ。私は両親を癌で亡くしているってこと、忘れた?
膵臓癌は発見されるのが、大抵は末期だから、もしグラムがそうだったら、手遅れということになるわね。
”そうだったわね。ご両親のこと、ごめんなさい。グラムはあなたにはなんて言ったの?”
そういえば、後5ヶ月とか言っていたような?
5ヶ月の治療が必要って言った気がする。私は親のことがあるんで、癌と聞くと取り乱すし、冷静に聞いているつもりでも、少しパニクったかも。
”とにかく、クレークとジュリアは彼に会わなくちゃいけないわ。ジュリアは結果的には卒業出来たのよ。カレッジも決まって、いろいろと用意で忙しいし、クレークも学校があるし。
どうしたらいいのかしら?どこにグラムは居るのかしら?”
私は日本から帰って来たその日に、そこに泊まらせてくれなどという唐突なメールがきて,癌だという電話が昨日で、時差ぼけやなんかで、何をどうしたらいいかさっぱり分からない。
”気の毒だわね。でも、いつまで彼はもつのかしら?”
へレンはグラムがすぐにでも死ぬのもだという設定の元に話しを進めている。
私の経験では、彼が末期の状態だったら、グラム次第だと思う。うちの父のように彼が癌だということ知らせなかったら、結構、持ったし、母は自分で死期を決めたというところがあったし、グラムの場合も、彼がもうこれでいいと現世に生きるのを諦めたら、死は早いかもしれない。こちらの用があるから,死ぬなともいえないと思うわよ。
”そうね。3ヶ月くらい?”
3ヶ月しても5ヶ月にしても,身体は衰えていくだけだから,会えるときに会っておかないと話しも出来なくなるかもよ。人によるもの。
”とにかく,グラムがどこにいるかを見つけて,うちの子達をそっちにやるわ。”
クレークは電話するって言って,電話してこないけれど?
”友達と車でカナダに行ったのよ。楽しんでるのよ。
と彼が電話してこないことのいい訳を言った。”
要はクレークは自分の人生で忙しくて、一緒に育ったことのない父親が死ぬかどうかと心配してると言っても,その存在は頭の5%くらいの場所にあるか?ないか?程度なのだろう。
私は何度も電話したり,メールを残したりしたが,返事はなかなかなく、メールが一度返って来たがそこには、”電話を持って出かけるのを忘れてメッセージがあったこと知らなかった。今晩、電話する。”などと言ったまま、それっきり連絡はないのである。
へレン,もう少し何かが分かったら,そっちに連絡するわ。
イギリスにも聞いてみた方がいいかしら?ジョージとパムは凄い勢いで,グラムを嫌っているし。
”残念なことね。でも、あの2人には歴史が。グラムはよっぽどひどいことをしたのね。とにかく、グラムが癌であるかどうかも突き止めないといけないわね。”
そうね。全く,どうしたらいいものやら。
と電話を切った。
私の帰国後の予定は,9月25日締め切りのキルトのコンテストに出す作品作り。その勢いで,10月10日のキルトショーと11月9日の東京でのグループ展の作品作りに没頭する!であった。
グラム騒動は私の予定を精神的にプロックする状態での介入。
それにもめげずにアイディアをスケッチブックに書くという戦い。
この期間にケントのアイスホッケーの泊まりがけのトーナメントが2つもある。
一体いつ仕事をしろというのだ。
ホームレスが癌なら,ここに来るしかないのだろうか?
私は癌で苦しむ両親を看病した日々を思い出した。
あぁ、どうして神様は癌患者をまた私のところに送り込むのだろう?
父親に会わなければと言っている2人が来るとしたら,ケントも兄姉に会っておいた方がいいので,3人を一緒にして私が面倒を見る、ということは、私の仕事がまた増えることになるのだ。
私はメアリにまた、腹がったった。
一体彼女は,彼女のしていることが,こうしてグラムの子供を持つ私達のところにとばっちりとなってくるということを考えることが出来ないのだろうか?
この12年間,自分たちの好き放題で,グラムの子供の面倒を時間的にも金銭的にも全く見ず、ここでグラムを突然,イギリスに帰すなどという手段で終わらせ,後のことは知らないというつもりなのだろうか?
私はこの女に文句すらいえないのか?
グラムは本当に死ぬのか?
2009年11月12日木曜日
10. 日本から戻ると。
早速グラムから、25日ぶりのメール。
そこに2,3日泊めてくれないか?
私達は今帰ったところで荷物も開けていなし、時差ぼけだし、くたくたよ。
オ− マイ ゴット。早速、始まった。
次の日の朝,電話。
ハロー
”フージ、日本はどうだった?楽しんで来たかい?”
明るく話そうとしているが、今にでも声のトーンが落ちそうな話し方。
まぁ、それなりに。母の居ない家に帰って片付けはつらい。
”フージ、僕はもう駄目なんだ。あぁ、とてもつらい。実は俺は膵臓癌なんだ。カレンにも電話した。”
しばらくのサイレント。
”くそー、酒の奴。”
と言うが、どうやら泣いているようである。
”詳しいことは来週、医者に会うのでその時分かる。”
来週のいつ?私は仕事先に行く予定があるけれど、一緒に病院に行こうか?
”いや、一人で大丈夫だ。”
そう、本当に大丈夫? じゃ、詳しいことが分かったら電話ちょうだい?
泣きながら彼は電話を切った。
私の居ない間、グラムの状況は好転している訳もなかった。
これは2度目の癌報告である。ああれだけ酒を飲んでいたら、身体を壊すのが普通なので、信じようと思えば、簡単に信じられる話なのである。
しかし、この言葉は2年前にも聞いているのである。
あれは父の日の前の日で、私達は父の日にサッカーのトーナメントに行くので見に来ないかと誘ったとき、グラムは自分は癌だと言ったのだ。
その次の日に母が電話して来て、私がグラムのことを言うと、私も言わなくちゃいけないことがあるのだけど、と口を濁した。
なに?いいこと悪いこと?
グラムと同じ。
どこの?
女にしかないところ。
で、どのくらい悪いの?
ここ一年,抗がん剤を打って、少し良くなったから手術をしようと思うの。
いつ?
2週間後。
母が末期の乳癌で手術をするというのだ。彼女は今日という日まで全く彼女の病状をはなさなかった。
私は息子の行き先が決まり次第、日本に飛んだ。日本には手術の3日前に着いた。
私の第2のブラックホール、第1の時とはまた違った深いブラックホールに入ってしまった。しかも、それは父と同じで、嫌もっと長くかかるのかもしれない。私が死ぬまで引きずるのかもしれない。
その母は死んでしまったのに、グラムは生きているのである。
しかし、両親を癌で亡くした私には聞き流せない話である。
2年前、彼はケントのサッカートーナメントに来るはずだった。彼は3時間も迷ってトーナメントに来たときには全ての試合は終わっていた。
彼が来ることが分っていたので、私達はチームメイトの車に同乗して行ったので、グラムが来るのを待たなければならなかった。私達は呆れて口もきけなかった。
メアリの4WD,ハイクラスのレンジローバーで来た。それに同乗したが、彼が酔っぱらっているのは明らかで、あの運転の横には座っていれず、私に運転させてくれと頼んだ。
高い車だからとグラムは言ってくれたが、高かろうと安かろうと私の方が確実に安全運転できる。高速道路の路肩に停めさせて、私に変わってもらった。
癌で死ぬと言っている人が息子のトーナメントにも来れず、車が運転出来ないほど、酔っぱらっている。なんということだ。
家で仮眠させ、グラムは起きると帰らなくてはいけないと言って帰って行った。
一体、何しに来たのか?
私は彼の生活のことを尋かない、この状態においても尋かない。
尋いたところでその話の裏付けは誰からも得られないのだし、私にどうすることも出来ない。
その上、彼は、
大丈夫。何とかする。心配しなくていい。
と答えるのを知っている。
この辺りから、メアリとはもう終わったと口に出していたが、ニューヨークを引き払ってコネチカットに引っ越したのもメアリの本宅の近くだったし、うちに来るときはこの車かレキサスで来た。どちらもメアリのである。彼の仕事の社長もメアリ。
メアリにはもうお金がないとも言い出した。1ブロックの地所を持っていると言ったのは、そこに遊びに行ったゼントの話だが、その家を売って引っ越したとも聞いた。
一体何が起こっているのか?
ケントはこう言った。
5億持っている人が4億失してお金がないと言うけれど、まだ1億持っている。
僕たちはその1億も持っていない。
12歳の子の言葉としては名言だと思う。
メアリの金銭状態はしらないが、うちに養育費は入っていないのは確かである。
私はへレンにメールした。
日本から帰って来たんだけど、グラムから連絡あった?
と簡単なメールにした。
おかえり,フーディ、楽しい旅行だったと思うけれど、どうだった? グラムから、日曜日の夕方頃電話があったわ。私たちは、結構沢山話したけれど、私はオヘア空港に居て、雑音がするし、聞き取りにくかったの。しかも、グラムは膵臓癌だと言って泣くし。 彼はスコットランドに帰ろうかと思っているが、まだビルとキャロルには話していなし、決まっている訳ではないとも言っていたわ。彼は非常に感情的で不安定な感じ。彼は友達のところに居候しているけれど、友達の彼女がグラムに出て行って欲しいと言っているらしいわ。彼が行くところはどこもないと思うのよ。この先、彼がどうなるのか想像もできないわ。
子供たちにこの週の初めに彼の膵臓癌のこと話したわ。クレークは火曜日からグラムに連絡しているけれど、グラムから音沙汰がないらしいわ。 私もグラムに今後のこととか聞いているんだけれど、何も言ってこない.ジュリアはマイクとファイスブックで話したけれど、マイクは何も知らないと言っているようだわ。こんな状態だから何を信じたらいいのか分からない。クレークは心配しているし。
グラントのこと分かったら連絡ちょうだい。私は寝るわ.明日、ジュリアをカレッジに連れて行かなくてはならないし、クレークは来週から1週間、こっちに戻ってくる。
それじゃ、また。
と言う長いメールが戻って来た。
クレークからグラムはどこにいるかというメールは貰ったけれど、私も居所を知らないの。
クレークに電話して来てくれるようにいったんだけど。ジョージにも電話した。留守番電話に入っていたから。私が日本に帰っていることを忘れていたらしいわ。
グラムが電話して来たときのこと、もう少し詳しく話して。
電話ちょうだい。
と返した。
グラムから連絡があったら、とにかくこっちに連絡ちょうだい。
クレークとジュリアは彼に会わなくちゃ。
彼がかけて来たときには、恐怖感、自責の念、涙もろく。おそらく、酔っぱらっていたのでは?よくわからないのよ、ずーっと泣いていたし。なんか悲しかったわ。
今日も一日働いて疲れてしまっているから、後日電話する。
じゃ。ラブ
どうやら、うちと同じ状況らしいということは分かった。
うちに泊めてくれというメールの理由も分かった。
2009年11月11日水曜日
9. 養育費と彼のお金。
この答えを10年聞いているのである。そして払うはずがないのである。
8. 子供を産むということ。
一人は私の父。
父は4年という長い癌との闘病の後、64歳の若さで他界した。私はアメリカで生活出来るチャンスを捨てて、父の看病を母とし、父の墓を建てるまで日本に滞在した。
この時のことを、第一回めのブラックホールと呼んでいる。
全てが反対方向に向いていたと言っていいような気がする。私は日々に痩せて動けなる父の"死”を恐がり、そして自分も失っていた。
私は父の亡くなる前の40日間、父の病室で寝た。病院から、父は私のことしか聞かないので泊まり込んでもらわなくてはならないといわれたのである。
私は父と同じ天井を毎日見ていた。
腎臓がんの父と同じように血尿が出た。
その検査のときも父と同じ天井を見た。
私はこの天井を見て死ねないと思った。
父の最後の言葉の1つに、
”孫を見れなかったことが後悔だ。今からでも間に合う、作ってこい。”
などと言ってくれたのである。
生きていれば冗談だが、他界されると34歳になっていた私にはこの言葉は重くのしかかった。それは私自身の年齢にもあって、余り考えている時間もなさそうに思えた。
私は父が亡くなった時、神に祈ったのである。
どうか、偶然に子供を授けてください。出来れば、その子供の父親はヨーロッパ人で、私は自分の子供を一人っ子にしたくないのと、おそらく私は一人しか産めないので、既に子供のある人にしてください。
もう一人は私をデザインの世界に入る影響を与えた人。
父が死にかけている頃、彼女が病気で入院中と聞いて、彼女に似合いそうなパジャマを買って見舞いに行った。
彼女は私の8歳年上で、彼女のしていることは全てがカッコ良く見えたものだ。彼女みたいにかっこいいデザイナーになろうなどと高校生の私は憧れた。
けれど、彼女はいつも私を特別な友達として扱ってくれた。
でも、8歳上だから、彼女の人生は私より1,2歩先だった。私が彼女と知り合ったときは彼女は既に結婚していたし、私が働きだしたときには、母になっていた。
私が見舞いに行くと凄く嬉しそうで、ガウンを羽織って、
”下に行って、話しよう。”
と言った。
私は父の闘病で長いこと患者を診ているし、多くの人を見送ったりしていたので、彼女の病状を聞く気になれなかったので、どこが何れだけ悪かったのか、今も知らない。
尿の袋をぶら下げていたことは覚えている。それを悲しく思ったことを覚えている。
”フリ,幾つになった?”
私が17のときから知っている彼女はこんな風に話し始めた。
”34歳。”
”わぁ、そんなになるの?37歳で子供産みなさい。厄払いになるわ。
私は退院したら、今度こそ、人生やり直すの。離婚するわ。父のところに帰る。”
彼女の顔は輝いていて,決して悲惨そうでなかった。
私がアメリカに発つ頃、私達の共通の友達と道で出会った。
彼が、彼女の死を教えてくれた。
彼女のご主人はほとんど誰にも彼女の死を連絡しなかったのことだった。
当然、私にも連絡がなかった。
父を亡くしてから、私は毎日のように生きている父の夢を見た。父は一言も喋らないのだが,仕事に行っては帰って来るのである。
私は子供を授かったことをその瞬間に知った。
ケントは神の子だった。
7. 12年とは一回り。
ケントが産まれて3ヶ月した頃、私達はクレークとジュリアに彼らの弟を紹介するために車でシカゴまで走った。その時の私達の車は中古車のトウラスワゴンで猛暑で死者が出ているというシカゴに向かっていた。
”ほら見てみろ、あの車、立ち往生しているぞ。”
とグラムは言った。
そうやって人の災難を笑っていると、神様は私達に災難を下さるわよとたしなめて、5分後。
突然、エアコンがきかなくなった。どうやらガスが漏れていてなくなってしまったようだった。
ー私達と神様の関係は非常に親密である。
凄く暑かった。運転しているグラムの腕から汗は滴り落ちていた。
16時間の運転となるので途中でモーテルに一泊しなければならなかった。そのホテルのプールを見た時、私は3ヶ月の赤ん坊を抱いたまま、飛び込みそうになるほど暑かった。
グラムが私に、
”赤ん坊は部屋に置いていった方がいいんじゃないか?”
と言ったのを覚えている。
あれほどシカゴでホテルを予約するように言っておいたのに、グラムはホテルも予約していなかった。エアコンのない車に8歳と4歳の子供を乗せてホテルを探しをしなければならなかった。選んでいる余裕もなく、お陰で私は高いホテル代を払わなくてはならなかった。この状態でも私にとって何よりだったのは、グラムの子供たちは私になついていたし、ケントをおもちゃのようにして可愛がった。私もこの子たちを可愛いと思った。
私は彼らとの関係を嬉しく思った。
ニュージャージに戻るとグラムは機嫌が悪かった。また、子供たちに逢って、昔の金持ち時代を思い出したか?私が仕事している間、カウチに座ってビールを飲んで映画を見ていた。
急に嫌みなことを私に言った。
”見てみろ。この女はお前のような嫌な女だ。”
私のグラムに対する我慢は随分前に頂点に達していた。
しかも、大枚はたいてアンタのためにシカゴまで行って、子供たちに逢わしてやったのに何様だと思っているんだと頭に来た。
”働きもしない酒を飲んでいるだけの大バカ者に言われる筋合いはないわ。”
すると、グラムは恐ろしく怒って、これは俺の自己防衛だといって私の腕をねじって私の顔をベットに伏せて、謝れと言った。
私は抵抗すると骨が折れると思ったので、抵抗をせず全身の力を抜いた。
これは効果があった。痛かったが、身体は柔軟になる。
その後、私をカウチにまで引きずっていき、上向けにして、私のクビを閉めた。
私はこうやって死んでいくんだと思っことを忘れない。
但し、身体の力を抜いてやられるままにしていたので、グラムはふと我に返って退いた。
私のような悪魔は俺の子供たちに近づいてはならないと罵ったが、もう私には触れなかった。
そしてグラムはベットルームに行って眠ったようだった。
私はリビングルームの端に座ったまま朝まで動けなかった。
一度寝て酒の冷めたグラムは人が違ったように優しい言い方で、朝方、泣き続けるケントにミルクを飲ませるようにと言った。
私はその次の日、知り合いのところにケントを連れて泊まりにいった。
怖くてとてもあの家にはいれなかった。
この時、始めて他人に自分の事情を説明して助けを求めた。
アメリカでのアル中のリハビリのシステムなどを知ったのはこの頃からであった。
多くの人がアル中との生活で苦労をしていることも知った。恥じることはないのだ。
暴力沙汰を他言されたグラムは人の忠告もあり、この出来事を深く後悔したようであった。酒をやめたい、やり直したいと週に二日、A. A.ミーティングに通いだした。
A. A.ミーティングはアル中の本人が行くミーティング、Al-anon ミーティングとはアル中を抱える家族が行くミーティング。私はそれにはなかなか行けなかった。
グラムは私が勧めた本屋で働くことに同意して働きだした。時給6ドル。時間から時間と働くようになると、それも酒のコントロールに役立った。しかも他の人と外で接するのも良かった。
グラムのこの酒を飲まない期間は結構続いた。
酒を飲まないといいこともあるもので、更生しようとするグラムの為に私達の数少ない友達も次の仕事の推薦状も書いてくれた。勿論、みんなは私とケントの生活を心配してを救ってやりたかったのだと思う。
するとNYのクラースラービルある広告代理店に送った履歴書が採用され、面接も受かって、ついに人並みな就職を決めた。
グラムは私に感謝し、出張でカリブに行った時、ダイヤモンドの結婚指輪を買って来たということもあった。グラムが帰って来るのをゼントと前庭で遊びながら待ったということもあった。
ケントが父親に向かって走っていく。そのケントを抱きかかえる。
まるで映画のようなシーンもあった。
ほんの短い期間のいい思い出も少しはある。
その頃、移民局は毎年,毎年,法律を変えた。
この年、グリーンカード待ちで滞在している私のような立場の人間は不法滞在とすると発表した。この発表後、強制送還を恐れて自ら帰った者も多かった。それが移民局の狙いで、彼らは彼らの金を使わず、不法滞在者を追い出したかったのである。私も強制送還を恐れて何らかの方法はないかと2.3人の弁護士をグラントと訪ねた。グリーンカード保持者からの申請だと7,8年かかるが、アメリカ市民からだと半年ぐらいで取れる。グラムがアメリカ人になるのが、一番の解決策だった。
そうすれば,私は一年以内にグリーンカードを貰える。
それには、3年分の税金の申告書が必要だった。
グラムはアメリカ人になることに協力的でなかった。
その理由の1つは彼の犯罪歴。
もう1つの理由は3年以上も税金の申告をしていないことだった。
犯罪歴のことはよくわからないが,とにかく、税金の申告はさせることにした。
一年分だけ2人の収入を一緒に申告した。その方が、子供の免除がおりるとか,そういった理由を会計士が言ったからだと思う。
これは私が出産した後で彼が就職していたので、ほとんど彼の収入に対する税金だったので彼が払う税金で私のではなかった。そして,私は彼が払ったものと信じていた。
それでも彼はアメリカ市民になる申請はしなかった。
この状態の頃、グラムはこの会社から昇進で別会社に移る話が来た。
そして、会社を変わってすぐにメアリとの出会いがあった。
それが12年前なのである。
メアリに出会い,その地位とパワーと彼女の美貌にぞっこんしたグラムは私の存在をゴミのように思った。
双方の立場は不倫、仕事に絡ませた関係。
グラントは自分を自分以上の人間仕立て上げて,多くの人と付き合っているから、それがばれることに恐怖感で酒を飲んだ。
酒を沢山、沢山飲んだ。
毎晩,酔っぱらって帰って来た。
ある日、グラムの財布にメアリの写真を見つけた。私は衝動でその夜、家を出て近くの墓地で朝まで過ごした。私は情けなかった。ビザで脅されて暮らしている自分が情けなかった。
あの女は地位も金もある。一体、私に何をしたいのだ?
決して負けない思った。
”俺に逆らえば、移民局に通報してやる。
メアリはFBIと通じている。”
この脅しは日増しにひどくなった。
一度殺されかけている私は酒を飲んでいるグラムには近づけなかった。
彼が帰ってくると、ケントの部屋に鍵を閉めて寝た。
私はこの時点においてグリーンカード取得以外の理由ではグラムはいらなかった。